雨、静脈

 目が覚めると、窓の外から静かな雨音が聞こえた。昨日の夜に見た天気予報はあいにく外れていたようで、気圧に比例して俺の気分も最低値を記録している。そのまま布団で一日を過ごしていたい衝動を抑えながら部屋を出て階段を降りた。
 洗面所に入ると、妹の夏澄が泡だらけの顔をこちらに向けた。何かモゴモゴと声を発すると、一歩下がり俺のために洗面台前のスペースを空けてくれた。水は冷たかったが、温水になるのを待つほど寒い季節は過ぎつつあり、俺はそのまま顔を洗った。ちらりと妹を見ると顔が泡だらけだったので、そのまま右手のリストバンドを取り排血も済ませてしまった。血圧が下がったからか、ますます気分は落ち込んだ。

 リビングに入ると、父さんがテレビを見ながら食パンをかじっていた。母さんはもう家を出ているようで、キッチンにはラップをかけられたサラダだけが置いてある。食パンをトースターに放り込んでインスタントコーヒーを淹れた。
 皿を持って食卓に向かうと、ちょうど天気予報が始まるところだった。あいにくの今朝のようすからテレビ局も方針を変更したと見えてキャスターのテンションも抑えめだった。
 トーストをかじり始めたタイミングで、洗面台から大声が響いてきた。
「ハルキー!洗面台で排血すんなって何度言ったらわかんの!!」
 泡だらけの顔でもしっかり見られていたようだ。
「はいはい、もうしないから」
 憂鬱に拍車をかける妹に文句の一つでも言ってやりたい気持ちになりながら、朝食を食べ終えた。

 雨の日はあらゆることが最悪と言って差し支えがない。中でも最も悪化するのは電車だ。濡れた傘、息苦しい車内、蒸れた臭い、五感を使って不快感を演出してくる。
 途中から乗り合わせたクラスメイトの一条と話していると、いつのまにか最寄駅に着いた。やはり会話は嫌なことを忘れさせてくれる。一条のおかげでやたらと湿度の高い車内も少し楽だったことを思い、心の中で手を合わせる。ありがとう、一条。やはり持つべきものは友だ。電車を降りるたところで一条が、
「あ、オレトイレ行くわ」
と行って、改札に向かう人波から外れていった。ゆっくりその後を追って、トイレの入り口で待つことにした。といっても、十秒も経たないうちに出てきたので、おそらく排血だったのだろう。俺は呆れまじりに出てきた一条に声をかけた。
「家で朝のうちに血ぃ出してこいよ」
「いやぁ、出したはずなんだけどな。昨日三食ラーメンだったのが良くなかったっぽい」
「あー、なるほど。脂っぽいものばっか食べてると貧血になるから、気をつけろよ」
「大村が人の心配なんて珍しいな…なんか悪いものでも食ったのか……?」
「なんだよその言いぐさは……
 今日はお前への感謝を伝える日なんだよ」
 おどけて言うと、一条は、よくわからないというふうに首をかしげていた。
 改札を出ると、相変わらず纏わりつくような雨がコンクリートの歩道に打ち付けられていた。

 放課後、野球部で体験入部があった。俺たちは1年越しで、体験する側から体験させる側に回っている。もちろん、雨でグラウンドに出れるような状態ではない。教室を借りてガイダンスと1年生に対して中学までのスポーツ経験を聞くだけになった。
 ひととおり話が済んで、さてどうしようかというときに、部員の一人が教室に入ってきた。
「雨、上がってるから少しボール触るか!」
 嬉しくてたまらないという表情だった。それは、練習ができるということへの嬉しさであると同時に、体験の新入生の力量を見れるということへの期待の表れでもあるのだろう。かくいう俺も同じ気持ちだ。

 結局、アップを素早く済ませてから、新入生と上級生が組んでキャッチボールをすることになった。俺の相手は、中学でも硬式に触れていたという、弱小よりは強い程度のうちの野球部では即戦力になれそうな新入生だった。ポジションはファーストらしい。
「リストバンドは右手なのに左利きなんだな」
 俺は気になったことを聞いてみた。
「はい、生まれつきで。排血腔と利き手が違うのはだいたい130人に一人くらいしかいないらしいです」
「へぇ。字を書くときとか引っかからなくて便利そうだな」
「それ、よく言われるんですよね」
 苦笑いしながらの返事だった。
「でも、バット握るときとか右手で力込めるときに血が出ちゃうことがあって、まあいいことばかりでもないですよ」
 しているうちに肩が温まってきて、どちらからともなく距離をとったため雑談も自然に止まった。空はまだその大半が雲に覆われていたが、隙間から日差しが除くこともあり、溜まっていた嫌な気分を吹き飛ばすには十分だった。
 20分ほどボールを投げていると、頬に雨粒が当たるのを感じた。嫌な予感がして周りを見渡すと、上級生たちは同様に練習を中断しようか悩んでいる様子だった。
 結局5分も経たず雨は本降りになり練習は中止になった。最後に、入部の意思確認と入部後の流れを軽く説明してその日は解散になった。

 解散後、部の同級生から飯に誘われたが、気分が乗らず断ってそのまま帰ることにした。家の最寄り駅についても雨が止むことはなく、昼間のキャッチボールをした時間が夢だったのではないかという気さえしてくる。
 家に着くと夏澄が先に帰っており、風呂を占拠していた。こんなことなら、あいつらと飯を食って時間を潰せばよかった。
「さっさと出ろよー」
 風呂場に一声掛けてから自分の部屋に向かい、制服を脱いだ。ベルトとネクタイを外すだけでも、だいぶ息がしやすくなった気がした。
 ベッドに寝そべると、ちょうど一条からLINEが届いた。ラーメンの画像だった。学校から駅までの途中にあるこってり系の店で、見るだけで胃もたれした。
 ほどほどにしとけよ
 まじで早死にするぞ
 返信を送ってスマホを放った。窓から外を見ると、夕方とは思えない暗い空が広がっていた。雨音に混じって、一条からの返信を知らせる通知音が聞こえてきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?