未開の地

戸内紗璃愛、21歳、大学生。
W大学理学部学生物科学専攻所属。
趣味、フィールドワーク。好きなもの、初めて。

 海はいつだって真新しい。波を作り、飛沫を上げ、常に在り方を変えながら一つの形にとどまることがない。だから私は海が好きだ。正確には海が好きなのではなく、その海原に船で乗り出し、真新しい海を切り裂いて波を作る背徳感が好きだ。
「まだ波ができるのを見てるんですか?」
 後輩のひよりくんがあきれたように言う。他の生物研究会の面々はとうに変わらない景色に飽きて、switchに興じているようだった。私が海が好きなことはW大学生物研究会では誰もが知っている。それだけではなく私の少し変わった性癖すらも知れ渡っている。
 私は初めてをこよなく愛している。たとえばまっさらな海、あるいは丁寧に盛り付けられた一皿、新築の傷一つない廊下、先に青いラバーのついたボールペン。そういった、まだ誰も手を付けていない場所を、一番乗りで踏み荒らす。その行為は背徳感に満ち、同時に私という存在を強烈に自覚させる。
 この性癖とは小学校のころからの付き合いで、当時の将来の夢は誰も踏み入れたことのない土地に踏み入る探検家だった。また、よく文房具をなくした。というより、新品の文房具を買ってもらうためになくしたと親に嘘をついた。買ってもらった直後は、そのまっさらな見た目に心躍らせるのだが、一度先を削った途端、角をこすった途端、線を引いた途端、それらは「使われるもの」としての価値を失ってしまうのだ。このため私の部屋のクローゼットには、一度だけ使われたことのある鉛筆や消しゴムやノートやらが積み重なって厳重にしまわれている。私にとってそれら一つひとつは、「私が初めてを奪ったものコレクション」の大切な一部なのだ。

 時を経て、さすがに探検家になりたいという夢はもうないが、それでも旅をするのは好きだ。当然ながら手垢のついた観光地やたくさんの人が訪れる自称大自然を訪ねるわけではない。誰もわざわざ大自然と呼ぶことすらないような、名前のない土地に自らの足跡と爪痕を残しに行くのだ。なのでこれは、一般的には旅というより探検やフィールドワークに近い。私が大学で生物学を学ぼうと思ったのも、僻地への足を運ぶ機会に恵まれると思ったからだ。

 いい加減海を眺めるのにも飽きてきたなと思う頃、徐々に目的の島影が見えてきた。広島県の港から船で30分ほどのところにある無人島。私たちはこれからこの無人島で3泊4日のフィールドワークを行う。1年前にもここでフィールドワークを行ったが、当時の痕跡などはすべて植生が覆いつくしてしまったことだろう。もちろん誰も来たことがないような場所にこそ惹かれるが、そんな場所は現代日本では望むべくもない。そこに人の残り香がなければ、それは十分に踏み荒らす価値がある。
 ひざ丈ほどに伸びた草地、足跡一つない砂、無秩序な藪。今日はどんなはじめてに出会うことができるのだろうか。

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