生物研のサークルクラッシャー

 彼女は、W大学生物研究会において畏怖と親しみと呆れを込めて「サークルクラッシャー」と呼ばれている。もちろん、部員からそのように呼ばれていることからもわかる通り、本当にこのサークルの人間関係を崩壊させているわけではない。むしろ彼女と関係を持つことによって、メンバーはある種の連帯感を持ってすらいる。傍から見れば非常に奇妙なこのサークルの雰囲気は、彼女の少し変わった性癖が生み出している。

 彼女、戸内紗璃愛は、入部して最初の自己紹介で「初めてのものが好きで。まだ誰も踏み入れたことのないような場所に行きたくてこの部に入りました」と言って部員一同を困惑させた。聞いたものたちが頭に疑問符を浮かべたこの発言の真意は、しかしほどなく彼女の口から説明がなされた。

 関東ではあっても都心というほどではない場所にあるW大学の生物研究会は、いわゆる理系のオタサーであり、工学系に比べれば女子部員は多いとはいえ高い比率を男子部員が占めている。そのため、顔立ちの整った戸内が入部したとき、部員は多少の盛り上がりを見せた。とはいえ、彼女がかなり熱心に生物の研究をしたいがためにこのサークルに入ったことはすぐに判明し、浮ついた話題もすぐになりを潜めた。
 新歓期も落ち着こうかという5月末ころ、部長、副部長他数名の部員で新歓の打ち上げとして飲み会が開かれた。その席で、酔った副部長が声を潜めてこう切り出した。
「実は俺、戸内さん…戸内とヤっちゃったんだ。いや、酔った勢いとかじゃなくて、俺はあの時シラフだったし、戸内も酔っているようには見えなかった。」
 彼が先週の水曜日、部室で一人ゲームをしていると戸内がふらりと部室に姿を現したのだという。戸内は彼に生物研の活動についていくつか質問した。その後もなんて事のない雑談をしていると、戸内は突然、
「先輩って彼女いるんですか?」
と彼に尋ねた。
「いや、ないけど…」
彼が戸惑いながら返すと畳みかけるように「いたことはありますか?女性経験は?」と訊かれ、困惑のあまりどちらもないと正直に答えた。すると戸内は少し間をあけて「もう遅いですし、そろそろ出ましょうか」と純真無垢な微笑みを浮かべた。そのあとのことを彼はよく覚えていないが、二人で連れ立って繁華街に行きホテルに入ったのだという。
 翌日、不安とわずかな期待を抱えながら部室に入ると、昨日の出来事が嘘のようにけろりとした表情で、いつも通りに振る舞う戸内の姿があった。

 副部長が一通り話し終えたとき、ほかの部員が囃せばいいのか、嗜めればいいのかとあいまいな表情を浮かべる中、部長だけははっきりと狼狽の色を見せた。
「実はオレもなんだ」
 そういって語られ始めた部長の話は、水曜日ではなく月曜日だったこと以外は、まるでドラマの再放送のように会話の流れから入ったホテルまで瓜二つで、質の悪いジョークにすら思えた。話を突き合わせていった結果、使った部屋まで同じだと分かった時には二人は顔を引き攣らつらせていた。

 次の日、二人は戸内を部室に呼び出して真意を聞き出そうとした。
「おい戸内、お前は俺たちのどっちかと付き合おうとしているのか?」
「お前は一体どういうつもりなんだ?」
 異性と関わることの少なかった二人は、問い詰めるような強い口調ではなく、お伺いを立てるかのような弱々しい声で質問を発した。
「すみません先輩、私はお二人に対して好意は持っていませんし、お付き合いするつもりもありません」
 戸内ははじめに、そうきっぱりと断言した。
「自己紹介でも言いましたが、私は初めてのものが大好きなんです。「初めてフェチ」と言ってしまってもいいくらい。
 新しい消しゴムの角を使いたいと思ったことはありませんか?あるいは学校に新しい備品が来た時に、一番最初に使いたいと思ったことは?そして、その気持ちが、誰かに使われてしまったとたん、たとえそれがきれいなままであったとしてももうそれほど魅力的でなくなってしまうという経験は誰しもあると思います。そういうものだと思ってください。
 例えば誰も踏んだことのない土に足跡をつけたい。誰も見たことのない生態を私が見つけたい。だから私は、そういった、人がなかなか来ないような場所にもフィールドワークで行きやすい生物学の研究をしようと思ったんです。お二人にしたのもそれと同じ。お二人の初めてを私が踏み荒らしたということが私にとってはとてもとても価値のあることなんです。そして、もう初めてではないお二人とはこれ以上そういった関係を結びたいとは思っていません。もちろん、今後ともいち生物研究会部員として、仲良くしていただけたらとは思いますが。」
 そう言い終えると、自分の言うべきことはすべて言い切ったといわんばかりに踵を返し、部室を出て行ってしまった。
 残された二人は、ただ唖然とするばかりだった。
 数日後、二人のもとに別の部員からLINEが来た。「戸内さんから、例の件の後お金取られたりとかしました…?」「僕も他人事じゃないというか……」
 二人は何があったのかを察し、戸内が話したことを一通り話した。その後も続々と同様の相談を受けるうちに、二人はもはや楽しくなってきて、次は誰から相談が来るか予想をしたり、後輩を呑みに誘って話を聞きだしたりした。最終的に、3か月もしないうちに生物研の部員のほとんどが、彼女に童貞を捧げることになった。すでに初めてではなかった部員も何人かいたが、ホテルの前でそのことが発覚して一人繁華街に放置された部員と、わけがわからないまま初体験を終えた部員、どちらかが惨めだったかは定かではない。

 同じ体験をした部員を、誰が言い出したのか「兄弟」と呼ぶようになり、翌年の新歓からは彼女に童貞を捧げることを「桃園の誓い」と呼ぶようになった。
 W大学生物研究会のサークルクラッシャーはこうして誕生した。

お題「兄弟」

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