「努力」という言葉

「努力」という言葉が嫌い。

やっていることは、課題にたいして何かしらの対策をとっているだけのこと。課題の大小や結果の善し悪しに依らず、何かを良くしようとすることはもれなく努力といえるはずであり、意識せずとも誰もがやっていることだろう。

しかし、この言葉はその本質以上に素晴らしく価値のあるもののように使われている気がする。

「努力」は成功者が極意を聞かれて一息吐いて言う言葉でも無く、頑張ってる自分に酔ってるときに言うものでも無く、ただ反射的に課題に対応するだけのことだ。

あまりにも努力をする人が偉いとされると、自分のような自己肯定感の低い人間は逆説的に努力できていないと言われているような感覚に陥る。

個人の頑張りなんか、世間はおろか傍にいる人にすらわかってもらえないようなもので、それらを全て賞賛しろとは言わない。ただせめて、「努力」という言葉に過剰な意味を持たせて近寄り難い存在にしないで欲しい。

「恋愛」とか「夢」とかもそう。「好き」「嫌い」「やりたいこと」くらいの言葉のほうがシンプルで分かりやすいじゃん。

そんなこと思うのも少数派なわけで、そんな難儀な自分と付き合って生きていくのは疲れるなぁ。




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