喜びの中に真理が隠れているのかもしれない

運が良いとは?


この漠然としたテーマに我々は執着し自分の人生をより良いものにしようとする。人によって幸せの条件は様々だ。それは生まれた環境と育った環境がバラバラだからだ。

では幸せを取り合うという定義は微妙に違って聞こえてくる。

幸せを取り合うになるであろう者とまったく関係ない幸せを求める者と…仲良くなれるとしたら、恐らくまったく関係ない幸せを求める者になるだろう。

でも、己が成長を望むなら幸せを取り合うライバルが必要だろう。

生まれたからには幸せを望むが、何で喜ぶかはある程度制御がきくようだ。その制御こそ己を戒めるという行動だ。

当然、幸福度は幸せより喜びが劣る。

生まれたままの本能で自由奔放に生きる幸せに対して、、状況から察し、己に相応しい喜びを得るために己を戒め、果てに喜びを得る。

真理の喜びと形骸の喜びと定義できるかもしれない。

だが、ここは先進国日本だ。今、景気が悪くなっているようなニュースが飛び交っているが。日本の豊かさに依存すれば形骸の喜びも真理の喜び並みになりうる…

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