なつやすみのしゅだいと『福田村事件』

 今週から学校が始まった。長すぎる夏休みも終わるとなると寂しく思えてくるけれど、正直何もしていなかったから、むしろ学校が始まる方が人間としていられる気がする。
 今期最初の授業は抽選で、数少ない友人と一緒に履修することができたので、ひとまず安心。次の日は全休にせざるを得なくて、午後からバイトを入れていた。今日はゼミなので、午後から活動を開始する。

 ゼミで何を学んでいるかと問われるとちょっと躊躇してしまう。というのも、いろんな事やってますとしか言いようがない。今年は映画について研究予定なので、聞かれたときはそう答えるようにしている。
 多分今日は「なつやすみのしゅくだい」について話すんだろう。とはいえ、そんなに大層なものではなくて、映画と予告をみるくらい。何本見たかと問われれば、そんなに見てないですとしか言えない程度。ただし、映画を頻繁に見るタイプではない自分にしては見ていた方だと思う。自分に甘いけれど、ひとまず褒めたい。えらいぞ、私。
 とはいえ、映画を観ていくうちに楽しくなっていたのか、後半は毎週のように映画を見に行っていた。一時的なマイブームになっているらしい。最近公開された映画で見たいものが1本ある。時間を見つけていくことも検討している。金銭的余裕があればの話だが。
 サブスクも合わせたら夏休みの間に12本。趣味の人からすれば少ないだろうけど、自分にしては多い方である。そのうち10本はアニメ映画なんだけれど。
 けれど、映画館の予告を見ながら、そのほとんどがアニメ映画だった。アニメも市民権を得てきたのか、はたまた自分が知らないだけで、元々アニメ映画が多かったのか。どちらにしろ、アニメ好きとしては映画館に行くハードルが下がるというものである。
 それに久々にミニシアターにも行けた。いつもは大学近くのミニシアターに行くのだけれど、実家に帰省していたからちょっと都会の小さな映画館に初めて行ってきた。ミニシアターはどんどん減っているけれど、見に行った映画の影響か、結構人がいてびっくりした。人が多かったのは都会だったからかもしれない。
 大学生になってから知った映画好きの父もミニシアター行ってみたいと話していたな、と思い出す。父が好きな物語は大抵超人気の、とかではない。むしろマイナーな作品の方が好き。あとはスプラッタ系。残念ながら、血肉に慣れていない自分では平常時に見れない。
 普通の映画館でやるようなものより、ミニシアターでやってる作品のほうが惹かれると口にしていた。しかし、ミニシアターが職場の近くらしく、仕事帰りには疲れていきたくはないし、とはいえ休日に職場に行くと仕事みたいでいやだからと結局行くことはなかったのだが。
 ミニシアターで見たのは森達也監督の『福田村事件』だった。前期にドキュメンタリー作品をみる講義があって、その時に出会ったのが始まり。予想以上に『FAKE』が面白くて他にどんな作品を手掛けているのかと気になって調べた時に現れたのがこの作品だった。ドキュメンタリーではなく初の劇画作品ということで、ちょっとテイストは違うだろうと先生と話をした。
 ふたを開けてみると森達也の問いがドンドン流れ出てきていた。ただ、私が見た森達也のドキュメンタリー作品にある「カメラの加虐性」は見当たらなかった。劇画作品でそれは無理だから当たり前だと思うけれど。あるいは見ていた人にはわかっていたのかもしれない。自分の知識不足である。
 予告を見た時は史実の福田村事件について語られているのかと思っていた。確かに大筋はその通りで、史実に基づいて脚本が描かれたのだろう。けれど、少し考えたら当たり前だけれど、それだけではなかった。大きく分けたら「差別」に対する問題意識。その「差別」の対象はたくさん含まれていて、村社会や人種、職業、身分などなどあらゆる差別の問題を取り扱ってた。その「差別」と関東大震災による混乱から生まれた噂や当時のジャーナリズム。自分が分かったのはそれくらいで、わかる人にはもっととれるものがあったのだと思う。
 特に後半のシーンは福田村事件がどんな悲劇かを事前に知っていたというのに、ただただ胸が苦しくなった。リアルではどれだけ苦しかったことかと想像するだけでもつらくなる。

 とはいえ、映画を観終わった時に一番最初に感じたのは「自分が村の人たちと同じ立場になったら、止めることができるのだろうか」だった。きっと止めることができないと思う。自分はそんなに強くなくて、いつもの主人公のように見ているだけで終わってしまうのではないかと想像する。だから、創作の世界の住人達にあこがれを抱くだけで終わるのである。こうなりたいと思っても、結局無理だろうなと考えるところまでが一連の流れ。主人公やその奥さんのように強くはなれないと思う。
 けれど、今後同じような事件が起こらないだろうなんて楽観的には考えない。今回はたまたま福田村事件という一つの事件を基にした創作物に触れただけだ。現実にはあり得る話だし、この事件は史実である。今もどこかで差別は存在していて、まっさらに消えることは難しいだろうとも思う。
 ただ、少しくらいは色眼鏡をとれる人になりたい。その人のステータスを見るよりも、その人自身や考えていることを聞いて「そういう意見もあるよね」と思える人間にはなりたいと常々思う。無意識の差別は自分じゃわからないから、気を付けることすらできないけれど。

 ゼミで何を話すのだろうか。自分が言える映画の話なんて限られていて、とてつもなく甘くて、表面的なものしかない。映画のあらすじは予告で分かっても、作品性は観ないとわからない。この夏に出した当たり前すぎる結論。優秀でいろんな角度から映画を観れるゼミのメンバーの意見を聞きつつ、自分の考えをもう少し深められたらとちょっとした期待をしつつ、学校に行くことにする。
 この時点で、「期待」という色眼鏡をつけているから、自分の成長していなさを感じるのであった。


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