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やった後悔、やらなかった後悔

「なぜユーラシア大陸横断をしようと思ったのですか?」


今、ユーラシア大陸横断記をマガジンにまとめているけど、旅の途中で出会った人たちに、よくこの質問をされたことを思い出した。


「今しかできないからだと思ったからです。自由な時間がたっぷりある今、ヨーロッパの世界遺産を見てまわりたいと思いました」


ちょっと寒い答えだと受け取られるかもしれないけど、それが本心だったので、自信を持ってそう言った。

こんなぶっ飛んだバックパッカーの旅をともにできるのも、バディとなったこの友達しかいないだろうし、仮に社会に出たあとにバックパッカーの猛者に出会ったとしても、1ヶ月もまとまった休みはとれないだろう。もし転職をして、次の仕事につくまでの期間に、ユーラシア大陸横断の旅を決行できるかもしれないが。

けれど、そのような不確実な未来に託すのではなくて、できるうちにやることにした。


事実、その半年後にはコロナウイルスが出現して、その2年後には、ロシア(ユーラシア大陸横断はロシアからスタートだった)も今のような状態になって、入国できなくなってしまった。

母親がテレビのニュースを見ながら、「あのときに行っといて、本当に運がよかったね」と言った。「そうだね、まさかこんなことが起きると思わなかった」


今は、「あのとき行っといて、本当によかった」と思っているけど、旅の真っ只中にいるときは、「ああ、こんなしんどい旅になるなら、やらなければよかったかも」と思っていた。

日本にいれば、快適で安心で慣れ親しんだ生活が、僕を待っていたのだから。それに比べこの横断の旅では、ろくな飯も食べれないし、野宿も当たり前だし、荷物を背負ってずっと歩き続けないといけない。その当時は、この旅に参加したことをとても後悔していた。


やった後悔というのは、そのときだけなのかもしれない。この旅を振り返って、そう感じた。何かにチャレンジして、その結果、失敗したり苦しい思いをしたりすることがあっても、後悔は短期間で終わり、長いスパンで見れば、むしろやってよかったと思える。人間は嫌な思い出でも、美化するのがうまいらしい。

逆に、やらなかった後悔というのは、どうだろう。これまでの人生でやらなかった後悔(高校生のとき、好きだった子に告白しなかったとか)が何個かあるが、それらは時間が経っても、消えてなくならない。「もしあのとき勇気を出してやっていれば、どうなっていたんだろう」と、ずっと頭の中に、そのときの後悔が奥深くに根を生やし続けている


やらなかったことというのは、無限の可能性を残している。やったことは、その結果がすぐにフィードバックとして現れるので、可能性が入り込む余地がない。けれど、やらなかったことは、もしやった場合に起こりえたことを、いくらでも想像できる。死ぬ時まで、頭の中に浮かび上がる、そのパラレルワールドみたいな映像と付き合っていかないとならない。

そんな後悔の種をもう増やしたくないなら、やりたいことは、勇気を持ってやるしかないんだろうな。時期が整ったら、とか、まだ準備ができてない、とか言っていたら、もうそのチャンスは二度と訪れないかもしれない。


けど、あのバックパッカーの旅はもう二度と行きたくないかも。あまりに過酷すぎた。


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