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公衆電話

9・13日の金曜日


 
発症の当日は朝から自分が今までとまるで違っているのに気づいていた。

 1月13日の金曜日だった。

 それを少し遡ること11日は自分の教会の月次祭で、祭典の最中わけもなく有難くなって自然に涙がこぼれだすのを止めようがなくなったのを思い出す。
 その頃は、すでに鬱状態が酷くなって仕事を辞めていて社会復帰の画策をしては走り回ったり、何もせずに家にいるのは世間体が悪いと思い市役所の福祉課で聞いた障がい者の就労支援施設(作業所)に腰掛のつもりで働き始めてもいた。
 *その後10年も世話になることになったのだが・・・

 13日の金曜日の朝早く、工場に行って席に座ると自分の周りの空気中に金粉のような光の粒がキラキラ輝いて渦巻いているのを不思議に思って見つめていた。
 それはかなり長い時間続いた。

 *これまでも繰り返し言ってるように子供の頃は夢ともビジョンともつかないイメージの中で息をしていたのだが、繰り返し見る夢やビジョンがあった。
 人間関係を星座に配置して眠りにつく儀式の事は詳しく話したが、あれはそのビジョンに包まれて安心できる宇宙マンダラのようなものだったと思う。もう一つ、夢で座敷の襖が次々に開いて奥へ奥へといざなわれ、脈拍が早くなったころ最後の襖があくと同時に猫が飛び出してくるっていうのもあった…

 その日の朝見た、踊る光の粒子も大人になってみる白昼夢のようなものだったのかも知れない。
 しかし、その後も身の回りに起きる些細な出来事が普段と違ってすごく重要な意味を持っているように感じられて、それが自分と繋がっており何かしらの責任を僕が背負っているとも思えた。 
 ほかの利用者がしたことを大げさに騒ぎ立てて作業所の指導員を困惑させ、かなり強く注意されたりもした。
 それでもまたそれを挽回しようとして、仕事中に自分の友人で頼りになりそうだと思える人を思い出し電話して助力を頼んだりもしたのだった。

 

 気が違うとか、気がふれるとか言う。キチガイと言うのも現代では差別用語になる。古くは狐憑きとかも呼んだりされたが、人間の本性としてダーウィンの進化論を持ち出すまでもなく動物から進化して来た過程を無視することはできないのではないだろうか?

 正に僕が発症した時にいた場所はお稲荷さんを祀ってあった。
「熊野のクマを救けて!」
というメッセージにも動物が登場する。発症した時、神事の行われていた玄関に熊のような犬の幻想も見た。
 
 入院した病院にも常に動物の氣配を感じた。
人間も動物をして生き延びる為には野生の本能は必要で、植物なり動物を食べ物とする生命エネルギーは欠かせないと思う。

 食堂の隣の席に座ったT君がふと、
「あの入口にある王妃の像は猫と深い関係があるらしいよ」
と言った。
 そういえば、エジプトの神殿には猫や犬が人間と合体した神像が描かれているのを思い出した。

 動物は悩むことを知らず、神もまた病んだり苦しむことはあり得ない。ただ人間のみがそういう状況に置かれているともいえるようだ。
 僕も隔離室でも1週間、筆舌に尽くしがたい七転八倒を繰り返したのだったけれど、どこかで自分を離れて自らを観察していたようにも思う。
 

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