ある歌手の一生(浅野浩二の小説)
ある歌手の一生
昭和四十二年八月二十二日、その少女は生まれた。名前は佐藤加代。よくたべ、よくねむり、よくあそんだ。ごく普通の子だと親は思った。少女が成長するにつれ、親は少女がちょっと他の子とちがっているのに気がついた。それは根気強さともワガママともみれた。思い込んだらすべてを忘れて熱中してしまうのだ。あそびでも何にでも。特に少女は歌をうたうのが好きだった。みんなの前でうたうのが好きだった。
少女には二つ年上の姉がいた。妹おもいのやさしい姉だった。でも少女の服はいっつも姉のお古。たまには自分にも新しいのを買ってほしい。
小学校六年の学芸会。浦島太郎、をやることになった。彼女はみんなのすすめで乙姫に選ばれた。うまくできるか心配だった。だけど結果は大成功。家族みんながよろこんでくれた。こんな心のときめきは生まれてはじめてだった。その時、少女の心に夢が生まれた。でもそれはだれにも言えないほどのもの。
少女は一人、心の中でくりかえした。
(歌手になりたい。)
誰にも言えない想いを胸に秘めたまま、少女は中学生になった。いったい、いつからだろう。心やさしい天使が少女の望みをかなえてやろうと思ったのだろうか。奇跡のような変化が少女に起こった。竹取物語のように美しい成長が少女に起こった。多くの男子生徒が彼女にあこがれた。しかし少女には異性への恋心がおこらなかった。恋をしない女の子かと男は思った。しかし少女は心の中で恋をしていた。子供の頃からずっと恋をしていた。少女の恋・・・それは歌手になりたい、という少女の夢だった。でも少女はそれを誰にも言えなかった。自分には歌手なんてとても無理。厳格な両親。とてもゆるしてくれっこない。だが少女の情熱はもう自分でもおさえることができないほど、心の中でふくらんでしまっていた。少女は内緒で、あるオーディションに応募した。
(悩むよりは失望した方がまし。)
オーディションの当日。
(加代。がんばれ。おちてもともと。)
少女は自分にそう言いきかせた。するどい審査員の眼差しの中で少女は精一杯うたった。帰り道、力をだしきったあとの満足感で、すべてのものが少女には美しかった。二週間後、オーディション落選の手紙がきた。ショックだった。だが彼女の情熱は一回の失敗で消えてしまうような弱いものではなかった。別のオーディションをうけた。だがやっぱりだめだった。
(私にはやっぱり歌手なんて無理なのかもしれない。)
あきらめ・・・への誘惑が少女の心に起こった。少女の心はいく分、夢から現実へもどりかけた。だがオーディションをうけたことは内気だった少女に少し明るさをもたらした。多くの友達ができた。彼女は友達と愉快にはなした。日々の生活に活気がではじめた。歌手への夢を忘れかけたそんなある日のことだった。少女のもとに一通の手紙がとどいた。あるオーディションの予選会の通知だった。一年前に応募ハガキを出したのだが、通知がこないものだから、おちたものだとあきらていたものだった。忘れかけていた夢への想いが再び心の中でうごきはじめた。
「もう一度だけやってみよう。」
少女は再び歌の練習をはじめた。
オーディションの日がきた。
会場へむかう電車の中、少女は自分に何度もいいきかせた。
「だめでもともと。」
会場は熱気につつまれていた。出場者はみんな緊張していた。だが不思議と少女の心に緊張感はなかった。心はしずかだった。まるでだれもいない森の中の湖のほとりにたたずんでいるような気分だった。少女の番がきた。会場がしんとしずまり返った。少女は無心で歌った。気づいた時にあったものは満場の拍手だった。合格だった。家へ帰る途、少女の足は雲をふむようだった。目的を達成した満足感と目的を達成した後の虚無感が少女の心をしめていた。茫然自失してしばらくは何も手につかない日々がつづいた。だが三日もするころから少女の心は現実へともどりはじめていた。少女の現実。そして現実の目的とは。いうまでもなく、地区予選を合格した者がめざす決勝大会である。テレビ局から決勝大会出場への通知がきた。彼女の決意はゆるぎないものとなった。少女は自分の心と将来のことをすべて家族にはなした。だが両親は猛反対。少女の父の家系は代々教育者で娘を芸能界へやるなどとんでもないこと。しかも今はまじかに高校受験をひかえている時。だが少女の情熱はそんなことでひきさがるようなものではなかった。
何日も口論がつづいた。だがどちらもガンとしてゆずらない。口論でダメだとわかると彼女はハンガーストライキにでた。学校から帰っても自室に閉じこもり、家族と口をきかない。食事もしない。そんな日が何日もつづいた。少女は夜おそくだれもいなくなってから一人で食事した。それは母が彼女のために用意してくれたものだった。ハンガーストライキに入ってもう四日たった。少女はつかれていた。家族も同じだった。五日目の朝がきた。日曜日だった。母は食卓に娘の書き置きがあるのに気づいた。それにはこう書かれてあった。
お母さんの考えている将来と私の将来とはちがうんです。
確かにお母さんの言ってることはわかります。
だけど一度しかない私の人生です。後悔したくないんです。
お母さんにしてみれば、あんな仕事とかをすることが「後悔する」って言うのでしょう。でも私にしてみればそれはずうっと前から思ってたことなんです。それだけを今まで考えてきたことなんです。それで、何かそれが私の生きがいっていうのか、とにかくやりたいんです。こんなことかいといて落っこっちたら恥ずかしいですけどとにかく私の願いなんです。真剣です。
お母さんへ 加代
母はよみおえてため息をついた。何度もよみ返した。読むたびに娘の真剣さがひしひしと感じられる。娘のいない朝食がすんだ後、母ははじめて本気で娘の願望にどう答えるか考えだした。
(加代は世間知らずだから歌手なんて夢にうつつを抜かしている。どうしたらあの子に現実をおしえることができるだろう。)
ボーン。ボーン。時計が正午を告げた。
バサバサッ。庭にいた鳥の群れがいっせいにとびたった。テレビをつけると、いつものアナウンサーが画面にあらわれた。
「正午になりました。お昼のニュースです。昨夜、イラン発クウェート行きの最終便で乗客二百五十人を人質にしてたてこもったハイジャック犯一味は今朝、交換条件として、次の三つのことを要求しました。一つ・・・。」
と、その時、母の頭に一つの巧妙な考えがうかんだ。
「これなら加代の気持ちも納得させられるし受験勉強もさせられる。」
母は机に向かいペンをとった。
「できた。」
母は自分の書いた手紙をみて苦笑した。「これなら万全。」母は手紙をもって娘の部屋の前にたった。
トントン。
「加代。」
ドンドン。
「加代。あけなさい。」
「・・・・・・。」
「加代。あなたの気持ちはわかりました。そうまでオーディションうけたいのならうけてごらんなさい。そのかわり・・・・。」
母が言いおわらないうちにノブのロックがとかれる音がきこえた。ガチャリ。
ドアが少し開かれると中から娘がためらいがちに顔をだした。おどろきとおそれとよろこびがまざったような表情だった。
「ホント?」娘はおそるおそる口を開いた。
「ええ。ほんとうです。」
(ヤッター)娘の口から、そのコトバがでそうになるまさにその直前で母はそのコトバをさえぎった。
「そのかわり条件があります。」
そう言って母は娘に一枚の紙をさし出した。
「ここにかいてある三つのことが実行できるのなら、オーディションをうけることをゆるします。」
そう言って娘に手紙をわたすと母はそそくさと階下へおりていった。少女はすぐに手紙に目をおとした。手紙には箇条書きで三つのことがかかれてあった。
一、学内のテストで、学年で5番以内にはいること。
一、中統(中部統一模擬試験)の結果が学内で5番以内であること。
一、第一志望の公立高校に合格すること。
三十分後、少女は階下におりてきた。家族と顔をあわせるのは五日ぶりだった。少女は母の前にきた。その目は、これから真剣勝負にいどもうとする侍の目だった。
「お母さん。」
「何ですか。」
「あの三つのことができたら本当にオーディション受けさせてくれますか?」
「もちろんです。」
娘の目がかがやいた。
「がんばります。」
少女の心の中で戦いの火蓋が切りおとされた。
少女はその日から猛勉強を開始した。書店に行って高校受験用の問題集をたくさん買ってきて、それをかたっぱしからこなしていった。好きだった歌謡番組も観るのをやめにして深夜の2時、3時まで机に向かった。授業中も隠れて受験勉強用のテキストをやった。家に帰っても家族と話をする時間もほとんどないくらいに猛勉強した。食事時間もきりつめた。頭につめこめるかぎりをつめこんだ。その単位時間当たりのつめこみ量は司法試験の受験生以上だった。すると、夢にかける願いの気持ち、はおそるべき威力を発揮するものである。あたかも眠っていた脳細胞が目覚めさせられたかのごとく、少女の思考力と記憶力はおそるべき速力でもって回転しだした。読んだものはスラスラと頭の中に入っていった。エンピツは彼女の思考の速度を超えてスラスラとかってに動きだした。何ごとでもそうだが、勉強も、それがわかれば面白いものである。いつしか少女は自分が勉強する真の目的を忘れてしまうほど一心に勉強した。母はそんな娘をみて、てっきり娘が歌手になるという夢をあきらめて勉強にうちこんでいるのだと思ってよろこんだ。だが少女は夢を忘れていなかった。
季節は秋もおわりに近づいていた。少女の努力は実った。彼女は学校のテストでギリギリ、条件の5番に入った。
さらに中部統一模擬試験でも学内で5番に入った。
母親から言われた決戦大会をうけるための条件の二つはこれでみたされた。のこりの条件はあと一つ。第一志望の高校に合格すること。彼女の第一志望は名古屋市立K高校だった。偏差値は県下でもトップクラス。今の彼女の実力ではギリギリのボーダーライン。でも何としても合格しなくては決戦大会はうけられない。
「がんばらなくては。」
高校受験まであと三ヵ月になった。学校で、卒業後の進路相談が行なわれた。
「佐藤。お前はどこの高校を受験する?」
担任教師が聞いた。
「はい。K高校です。」
「K高校か。ウーン。今のお前の実力だとギリギリだぞ。」
「はい。わかっています。」
担任教師は少女の目をじっとみた。大人の目からみれば、まだ世間知らずの少女の目。だがこの生徒の目には不可思議な輝きがあった。その目には大人でもかなわないほどの何かがあった。人間が子供から大人になるにつれていつのまにかなくなってしまう何ものか、がその瞳の中で、力強くその存在を主張していた。
「お前ならきっと入れる。がんばれよ。」
「はい。」
少女は教員室をでて、校庭におりた。真赤な夕日が西の山の端にさしかかっていた。
「K高校。K高校・・・。ウン。きっと入れる。」
少女は力強く自分に言った。季節は秋から冬にかわろうとしていた。
孤軍奮闘の少女にも一人だけ味方がいた。
妹思いの姉である。何かにつけて姉は妹の夢の実現に協力してくれた。
家族もみんなねしずまって、少女が一人で机に向かっている、ある夜はこんな様子である。
トントン。
「はい。」
「加代。おにぎりつくってあげたわよ。」
「わーい。ありがとー。」
加代は勉強の手を休めて、姉のつくってくれたおにぎりを食べた。
「勉強たいへんね。」
「でもそれがオーディション受ける条件だから。」
「えらいわね。」
「なんで・・・?」
「へんな子ね。」
「何で・・・?」
妹はキョトンとした顔でおにぎりをほおばりながら姉をみていたが、姉が微笑むと妹もそれに反応して微笑んだ。(阿吽の呼吸)姉が頭をなでると妹は一層朗らかな表情になった。と、その瞬間、思わず手がでて、姉は妹のほっぺたをピシャンとたたいた。
「何するの?」
「別に。ただ何となくたたきたくなったから。」
妹は目に涙をうかべて、
「私がオーディションうけること反対なの?」
「まさか。逆よ。お父さんもお母さんも反対してるけど私だけはあなたの味方よ。」
加代、おそるおそる「ホント?」
「ほんとよ。でなきゃわざわざ夜食つくってもってきたりしないわよ。」
「じゃ何でぶったの?]
姉は答えず、笑って妹の鼻の頭をチョコンとさわった。
「加代。がんばってね。妹が歌手だなんてことになったら私も鼻がたかいわ。また夜食つくってあげるわよ。」
妹はわからないまま、ほがらかに「ありがとう。」と答えた。
姉が立ちあがると妹は再び、すいよせられるように勉強を始めた。しずかな秋の夜にサラサラと筆の走る音だけがあとにのこった。
年が明けて、昭和五十八年三月十九日、彼女はみごと第一志望の名古屋市立K高校に合格した。
三月三十日、少女は上京し、決勝大会に出場した。かざることなく、ありのままの自分の気持ちを歌うことによって精一杯うったえた。
帰省すると姉が名古屋駅に出むかえていてくれた。前祝いに、二人は名古屋名物にこみうどんを食べた。
彼女のもとに「合格」のしらせがきたのは、四月中旬、K高校での新しい学校生活が始まって、数日後のことだった。うわさはすぐに全校にしれわたった。彼女を認めてくれた、いくつかのプロダクションとの慎重なはなしあいの結果、彼女はあるプロダクションに所属することがきまり、二学期に上京することになった。
彼女がこの時期、いかに幸せだったかは次のような挿話から察せられる。彼女は中学の時、美術部だった。専門の鑑定士を依頼しないと危険なほどの正確なルノワールの模写がいくつも今でも大切に、彼女の通った名古屋市立S中学校の美術部に保管されているのだが、それをみるといかに彼女が几帳面で一途に物事にうちこむ性格だったかがわかる。
その挿話はこんな具合である。
高校でも美術部に入ろうと思っていた矢先、たまたま放課後に一人でいるところに、別のクラスの新入生の男子生徒Iがおどおどと近づいてきて、申しわけなさそうな調子で彼女に話しかけた。「あ、あのー。」と少年は口ごもりながら顔を真赤にして言った。
加代は、わかっていながらわざとあたたかく、
「なに?」とききかえした。
「クラブは何に入りなさったのですか?」
あまりの卑屈さに加代は少しかわいそうに思った。
「クラブはまだ決まっていません。」
「あのー。ぼ、ぼく。サッカー部なんです。そ、それで先輩からマネージャーやってくれる人がいないかさがすようにいわれているんです。」
「それで?」
加代はまた、あっさりと聞き返した。少年は真赤になった。加代はつづけて言った。
「それでどうしたの?」
少年は答えられない。
「それで、私にマネージャーやらないかってことでしょ?」
彼は真赤になって、
「いえ。けっして、そんな・・・つまらなくなったら、いつおやめになってもかまいません。洗濯とか部室の掃除とか試合のスケジュールとか、めんどくさいことは、ぼくたち新入部員がやります。ただ名目だけでいいんです。」
「それじゃマネージャーじゃないじゃない。」
「・・・・・・。」
加代、笑って、
「いいわよ。私、サッカー部のマネージャーになるわ。」
と言うと、少年は反射的に「あっ。ごめんなさい。」と言った。
こんな具合で加代はサッカー部のマネージャーになった。
夢に胸をときめかせての新緑の季節の高校生活。このK高校の一学期は少女にとって最も幸福な時期だった。新しい友達も多くできた。みなが加代の将来を心から祝福してくれた。
一学期の終業式の日の夕方、加代の将来を祝って、近くのデニーズで送別会が行なわれた。
翌日、加代は街へ買い物に出かけた。名古屋の街とも当分おわかれだから故郷をかみしめておこうと思ったからだ。たそがれの商店街。向こうから加代をサッカー部のマネージャーに勧誘したIがみえた。二人の視線があった。彼は加代に気付くと真赤になって左下方に視線をおとしてギクシャク歩いた。にげようがない。Iはそのまま通りすぎようとするつもりらしい。加代はIに近づいてニッコリ笑った。Iの顔からジンマシンがふきだした。
「I君。きのう、どうして送別会きてくれなかったの?]
「そ、それは・・・。」
「何で?」
「そ、それは、ちょっと用事があったんです。」
「あー。ざんねんだったな。I君に一番きてほしかったのに。」
と加代は独り言のように言った。Iは答えられない。
「私、東京の高校へ転校したら、もうI君と会えなくなっちゃうな。さびしいな。」
と加代は独り言のように言った。
「さ、佐藤さん。がんばってください。ぼ、ぼく佐藤さんのこと応援してます。ぼ、ぼく一生佐藤さんのこと忘れません。」
そういうやIは一目散に夕日に向かって走りだした。
なおIは新入部員ではあったが、子供の頃からのサッカー少年で、対抗試合ではセンターフォワードをしていた。Iにボールがわたった時、加代がことさら熱っぽく、
「I君。しっかりー。」と力強く応援するとIは必ず凡ミスをしたことは言うまでもない。また加代もそれが面白くて、そうしたのだからいったいチームの足を引っぱるマネージャーなんておかしなものである。
(二)上京編
夏のおわり、不安と期待を胸に秘め少女は上京した。
プロダクションの社長の家に住み、女のマネージャーがついた。
転校先はH高校。まわりはみんな自分と同じ芸能人。少女ははじめて気がついた。自分がみんなと違うことを。みんな笑っている。ライバルなのに笑っている。心のそこから笑っている。自分もわらわなければ・・・。少女はクラスメート達と笑顔をつくって話した。しかし心の中ではいつもおびえていた。歌手になれるかという不安と、そんな不安を全くもたないクラスメート達におびえていた。そんな不安をまぎらわすため少女は歌とおどりのレッスンにすべての精力をそそいだ。
翌年の四月、少女はデビューした。大ヒットだった。うれしかった。それは少女にとって人生で一番幸福な瞬間だった。だが歌の生命は短い。
歌手、それは休むことをゆるされない人間。
芸能界、それは感性をうりものにする世界。
芸能人、それはそんな世界に抵抗なく生きていける人間。
プロダクションは少女のうりだしに奔放し、少女のスケジュールは過密をきわめた。うわべの笑顔とは裏腹に少女の心は不安にみちた疑問がたえることがなかった。
「私は何のために歌うのだろう。何のために笑うのだろう。」
少女は自分が芸能界にむかない性格であることに気づきはじめた。しかし生まれついてのまけずぎらいな性格は歩きはじめた道をひきかえすことをゆるさなかった。その年の暮、少女は新人賞を獲得した。うわべは笑いながらも少女の心はうつろだった。その年、少女の友はヒットせず、芸能界を去ることになった。少女は彼女になぐさめの言葉をかけた。その一方で友が少しも落胆していないのが少女にはうらやましかった。
楽屋で待つ少女はいつも一人ぼっちだった。
ある時そんな彼女に声をかけてくれた男があった。一言二言だったが、それは少女の孤独を理解したやさしい言葉だった。少女はうれしかった。それは砂漠の中を歩きつづけてやっとオアシスをみつけた旅人のよろこびだった。
年があけた。ガンバリ屋な少女は過密なスケジュールの中のわずかな時間で猛勉強し、無事三年への進級試験をこなした。
春休み。少女ははじめて休息することをゆるされた。ハワイで過ごした。はりつめつづけた心がふっととけた時、少女の心に一人の男の顔がうかんだ。それは同時に生まれて一度も経験したことのない不思議なはげしい感情を少女にもたらした。少女はいつまでも沈んでいく太平洋の夕日をみるともなくみていた。
だがそれはつかの間の休息だった。帰国後少女をまっていたものは超ハードスケジュールのコンサートツアーだった。不安と疑問をもちながらも少女は一生懸命歌った。四月、新曲が発売された。だがプロダクションの懸命のうりこみにもかかわらず、結果は今一つ満足のいくものではなかった。そんな彼女をなぐさめようと親しかった友がきた。少女の心はやわらいだ。歌手としてヒットせず引退した彼女だが、今は海外留学をめざして一生懸命英会話を勉強しているとのこと。少女は彼女がうらやましかった。自由に生きてる彼女がうらやましかった。プロダクションは彼女をイメージチェンジすることにした。少女は長かった髪を切った。プロダクションは少女に女優の仕事ももってきた。プロダクションは少女の中にある哀しみに目をつけた。
芸能界、そこは心の哀しみまで売り物にしてしまう世界。
プロダクションの思惑はあたった。テレビドラマへの出演の依頼が多くきた。少女は一生懸命演技した。再び少女は女優としてヒットした。だが少女の心はうつろだった。「何のために。」少女は自由がほしかった。だがもう少女に自由はなかった。世間というものに翻弄されつづけるあやつり人形。うつろな目で少女は夕暮の東京の街をみつめた。
そんなある日、少女にテラビドラマの主演の依頼がとどいた。出演者のリストの中に「×××」の名前をみつけた時、少女の心はときめいた。それは以前、彼女に声をかけてくれた男である。ドラマの撮影は順調に進んだ。少女はできることなら男と話したく思った。しかし少女の方から話しかける勇気はなかった。
撮影の合間の待時間、少女はいつも一人ぼっち。そんなある時、少女はポンと肩をたたかれた。おどろいてふりむいた少女の前には、その男がやさしい笑顔で立っていた。少女の胸によろこびが、限りないよろこびがこみあげてきた。そしてそれはまたたく間にはちきれて少女の顔で笑顔となった。少女は男に話しかけた。心のすべてを話しかけた。男はウン、ウンとうなずきながら一心に少女の話しを聞いた。少女にささやかな幸福な日々がおとづれた。ある日の撮影のあと、二人は近くのレストランへ入った。食事中も少女の口からは陽気なおしゃべりが耐えなかった。が、二人の目と目があった時、ふと少女のおしゃべりがとぎれた。少女は、自分が謡っている歌のフレーズを思い出して赤面した。この時、男は彼女が気まずくならないよう、さりげなく聞き手から話し手にまわった。だが幸福な日々は長くはつづかなかった。
年があけドラマの撮影もおわりに近づいた。
少女は知っていた。
ドラマのおわりが男とのつきあいのおわりであることを。
一月末、ドラマのスタッフと共演者達とそして彼女をのせた夜行列車はラストシーンの撮影のため北陸のある街へ向かって走っていた。男は共演者の一人の女性のとなりに座っていた。二人がたのしそうに話すのを少女はかなしい思いでみていた。
(だれにでもやさしい人なのだ。)
少女は窓の外に目をやった。途中で降りはじめた雨はいつしか雪にかわっていた。ぼんやりとその雪をながめているうちに少女の心に楽しかった子供の頃が思い出されてきた。するとその時少女の心に「ある行為」、それは今まで一度も考えてもみなかった行為へやさしくさそう感情がうまれた。雪はだんだんはげしい降りにかわっていった。それを一心にながめているうちに少女の心におこった感情はいつしか確固とした決意になっていた。
ロケは無事終わった。少女は男とだまって別れた。
三月、少女はH高校を卒業した。心の中の不安をつくりえがおで偽って付き合っていた友達だったが、いざ別れる時になって不思議とはじめて親愛の情がわいてきた。卒業式、少女は心から友達といつまでも別れをおしんだ。その時、少女ははじめて「わかれ」というものが自分が人と和解できる唯一つの方法であることに気がついた。社長の家にもどった少女は社長にずっと思い続けていた一人ぐらしをしてみたい、という願望をはなした。年間十数億円を売り上げ、年収三千万近くをプロダクションにもたらした少女のたのみである。社長は快く少女の申し出をうけいれた。
少女は上京以来三年間くらした社長の家をでた。少女の新しい住まいは南青山のマンションの四階の一室だった。ゆとりのある2DK。新品のベット、白い椅子、新品のインテリア。夜、窓からは南青山周辺のにぎやかなイルミネーションが美しくみえた。少女はベットにすわって独立と自由のよろこびを満喫していた。だが少女が社長の家を出たのには別の理由があった。「行為」の場所を少女はここにえらんだのだ。自由のよろこびは満喫していたが少女の決意は決してゆるいではいなかった。それでも、引っ越し後の数日間、少女はハワイ以来ひさびさにおとづれた自由な生活を楽しんだ。このままいつまでもこのままでいられるなら・・・。ふと少女の心にそんなはかない願望がおこることもあった。引っ越し後十日目、少女にマネージャーから電話がかかってきた。 四月はじめの都内の、ある公会堂でのコンサートのことだった。少女はそれをひきうけた。ドラマの撮影が多かったこのごろにあってひさしぶりのコンサートだった。少女の「決意の行為」の日時ははっきりと決められたと少女は思った。
このコンサートをさいごのコンサートにしよう。このコンサートだけは精一杯がんばろう。
少女は決意をかみしめながら美しい東京の夜景をみていた。テレビドラマが好評だったのだろう。コンサートは満員でパンフレットも全部売り切れた。パンフレットのさいごのページに少女はこんなメッセージをかいた。
どうもありがとう。
ほんのちょっとの間、おわかれネ
but、but またどこかで、
逢えますよね
その時を信じて・・・さよなら、
(I 'll be seeing you)
少女は精一杯歌った。最高にもりあがった。コンサートが無事にすんだ後、少女にはすべてをやりおわった安心感があった。マンションにもどった少女は洗面所からカミソリをもってきてベットに横たえた。少女は自分の左手首をしばらくながめていた。おそろしいという気持ちはおこらなかった。だがいざ手首にカミソリをあてた時、少女の心にもう一度だけ話しをしてみたい相手があらわれた。しばらくまよった末、少女はカミソリをおいてその男に電話をかけた。だが、でたのは女性だった。おそらくちかく結婚するとうわさされている女優の×××だろう。
「××はいま、お風呂に入っています。何か伝えておきましょうか。」
「いえ、いいです。」
少女は受話器をきった。そしてガス栓をひねり、ベットに横たえて睡眠薬をのみ、左の手首を切った。死に対するおそれの気持ちはなかった。カミソリが入った時は一瞬チクッという注射のような痛みが走ったが、それはその時一瞬だけだった。少女は睡眠薬の作用で深い眠りに入っていった。
だが少女は死ねなかった。少女が目をさましたのは病院の一室だった。左手首には包帯がまかれていた。少女は窓の外をみた。まだ夜があけたばかりの時刻だった。すぐに知らせを聞いてマネージャーと社長がきた。幸いケガはたいしたことはない。医師の許可で二人は少女を車にのせて事務所につれ帰った。二人は狼狽し、そして少女にはげましのことばをかけた。少女は泣いていた。自殺が失敗して生きのびるということはプライドの高い彼女にとって死ぬよりつらい、恥ずかしいことだった。少女は社長室に通された。二人は少女に話しかけることばを知らなかった。しばらく後、隣室から電話がなったので社長は部屋をでた。社長室は少女とマネージャーの二人きりになった。彼女は何をいっていいかわからない。
「何かのむ。」
少女はだまって首をふった。
「ストロベリージュースはどう。」
少女はだまってうなづいた。
マネージャーがストロベリージュースをとりにいった。
部屋には少女だけになった。少女は立ちあがって部屋をでた。一段一段屋上へと少女は階段をのぼっていった。少女の心はうつろだった。自分は生きていてはいけない人間なのだ。屋上の扉をあけると四月のまばゆい陽光が入ってきた。少女の心には少しのおそれもためらいもなかった。それは少女にとってごくかんたんなことだった。少女は空を見上げた。
一瞬何だか自分が空をとべるような気がした。
フワッ。一瞬、少女の体は宙に舞った。だがそれは一瞬だけだった。
昭和六十一年四月八日の正午のことだった。