【カバではないんです】とあるアーティストを紹介させて下さい11

とあるアーティストを紹介させて下さい。

彼女は1914年8月9日にフィンランドで、画家をしていた母親と彫刻家をしていた父親の間に生まれました。
両親の影響でごく幼い頃から絵筆を握っていました。

彼女は父の母校でもある共学校に通っていましたが全く肌に合いませんでした。

1930年5月、15歳の時には学校を自主退学し、ストックホルム工芸専門学校に入って広告やデザインの勉強をするようになります。

卒業後はストックホルムから実家に戻り美術学校(通称アテネウム)に入りました。

当時の絵画クラスには女性が少なく、成績に見合った評価がされませんでした。
やがてアテネウムにも見切りをつけ、諸外国を旅しながら生活をする様になります。

旅先の一つ、イタリアから帰国した直後、1939年に第二次世界大戦が始まります。
当時の彼女は政治風刺雑誌『ガルム』のイラストの仕事が高く評価されまた、雑誌で仕事をすることに面白さを感じていたようです。

1943年、彼女が創作した細長い鼻と耳、長い尻尾を持ったキャラクターが初めて公の場に姿を現したのも、『ガルム』誌のなかでのことです。

キャラクターはやがてムーミントロールと名付けられ、終戦後の1945年、『小さなトロールと大きな洪水』という物語として出版されますが、世間の注目を集めることはほとんどありませんでした。

しかし、彼女はムーミンの物語を描き続けます。

1946年には2作目の『ムーミン谷の彗星』を発表するとともに、3作目にあたる『たのしいムーミン一家』の執筆を始めます。

作品は好評を博し、続けてキャラクターをコミックにした連載を始めたところ人気が爆発。彼女はコミックと同時に小説の執筆も始めます。

1950年代、ムーミンシリーズのコミックと小説は40ヵ国以上で出版され、世界的な作品になりましたが、彼女自身はキャラクターが自らの手を離れて単なるビジネスとして消費され続ける事に対して疑問を感じる様になります。

そんな中、1955年にグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラという女性に出会い、強く惹かれます。彼女はトゥーリッキと交際を始め、熱狂的なファンや記者の訪問を避けることができる小さな離れ小島、クルーヴハル島で暮らすようになりました。

やがて彼女は彼女の生み出したキャラクターからの呪縛から逃れる様に、今まで扱ってこなかった、精神の暗部、孤独、老いや、同性愛の関係もその著作で描く様になります。

彼女の孤島での生活は歳を追う毎に不便を感じる様になりその後、彼女とパートナーの2人はヘルシンキに戻ります。

彼女は2001年6月27日に86歳で生涯を終えました。

彼女の名前はトーベ・ヤンソン
「ムーミン」をこの世に生み出し、生涯をかけて自由と創作を追い求め続けたアーティストです。

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