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おばちゃん

おばちゃんのことを本当の「おばちゃん」という親だと思っていた。おとうさん、おかあさん、おばちゃんとは同列、いや、それ以上だと、思っていた。

未満児保育が充実していなかった片田舎で、おばちゃんは近所の人の子を昼間預かっていた。生まれて半年から預けられていた私は、母に連れられて帰る時

「おうち帰る」といって、

おばちゃんの家に帰ると大泣きしていた記憶がある。

おばちゃんの家には、トトロに出てくるような井戸もあったし、大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちがいた。そこで夕飯を食べるのも当然だったし、まさに私の家だった。

おばちゃんは、おおらかな人で、何かしでかしても笑って何でも受け入れてくれた。おねしょをしようが、コップの水をこぼそうが

「あらまぁ、さとさがやってまった」と大笑いして
「ちょっとまっとれや」とささっとしまつをしてくれた。

おばちゃんちの縁側は私の1番好きな場所だった。足をぶらぶらさせて、お外を眺めて、遠くに見える赤い電車を時々ながめる。
2番目に好きなのは、井戸だった。危ないからとなかなか近寄らせてはもらえなかったけど、持ち手をキーコキーコさせると水がじゃぶじゃぶ出てくるのは不思議だったし、夏などは使いたい放題に水遊びをした。
3番目に好きだったのは家の裏。背丈よりもずっと高い石垣に3センチくらいの大きなでんでんむしが何匹もいた。飼うつもりもないのに、それを取って遊ぶのが好きだった。今思えば迷惑な子である。

台所は土間で、梅エキスやいちごジャムを作っていたのを覚えている。

小学生に入り、ピアノを習いに行くと、自転車でおばちゃんの家まで行き、そこから坂の上の先生の家まで歩いて行ってた。だから、ずっと二十歳まで毎週、顔を合わせていた。

4年生の時である。何だったか、親にしこたま叱られて
「出ていく!おばちゃん家にいく」と私がいうと

「笑わせるわ、金払って預かってくれただけや」と祖母に言われ、愕然としたのを覚えている。

それでも。
あのおばちゃんに受けた愛情は本物だったと、今でもずっと信じている。

遠くに嫁ぎ、長期休みしか帰らない私が、そのたびに、小さな手土産を持っていくととても喜んでくれた。そして「電車賃」といって1,000円とか、必ず、握らせてくれたのだ。子供を連れていくようになったら、子どもに。おばちゃんはだんだん歳をとって、くしゃくしゃになった笑顔で、いつも全身で喜んで私たちを迎えてくれた。

数年前から、病院に行っていたりして、会えない事が多く、ここ5年ほどは訪ねるのを控えていた。

おばちゃんが亡くなった

父から連絡があったのは日曜日。もう、家族葬も済ませたという。でも、早く会いたいと、何とかお休みを無理やりとって、尋ねてきた。

私が本当のお兄ちゃんだと思っていたお兄ちゃんの家に、おばちゃんは、眠っていた。99歳。数えで101歳。ある意味大往生だ。コロナなどで、週に一度10分の面会の制限がかかるようになってから、病状は進んでいったらしい。
そんなおばちゃんの最後、数年の姿を聞きながら、30分ほどお邪魔した。

まだ、実感はない。

実家に帰れば、

「さとさ!車が見えたでいると思って来たよ」

といつもの道を歩いてくるような気がする。
きっと、そう思って、私は待ち続けるような気がする。

おばちゃんに会いに行った日、思わぬ充実した一日を過ごす事ができた。おばちゃんからのプレゼントかなぁと思った。


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