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ドッジボールがやりたかった話

小学生も高学年となると友人関係も複雑になる。片田舎の生まれ育ちだから、親のしがらみまでふりかかってくるので厄介な者である。「さとちゃんはあんな大きな家があるんだから、うちに来なくてええんやないか」と露骨に言われたこともある。そこに敵意のようなものがある事くらい子どもにだって察することはできるのである。

外遊びは嫌いではなかった。かくれんぼで、誰にも見つからないところに隠れるのは得意だった。
でも、見つけてもらえないから、手加減して見つかりそうなところに隠れるのはつまらなかった。かくれんぼは、見つかりそうで見つからないドキドキ感がいいのである。
それに対し、走ったり、ボールを使うものは、「さとちゃんとチームになるとなぁ…」と皆まで言わなくても伝わる雰囲気が辛かった。そんな時に「今日は早く帰って来いと言われてた」などと嘘をつくのは後ろめたくも肩の荷が降りた気がしたものだった。

余談だが、我が家は、家は家で落ち着ける場所ではなかったので、家に帰るのも苦だったのである。

学校でも、高学年になるにつれ、球技が増える。放課時間も競って球技の場所取りだ。
ある日、リーダー格のゆりちゃんが「ドッジボールやる人ー!」とみんなを集めた。下手の横好きで、みんなの輪の中の隅っこにいるのが好きだった私は手を挙げた…はずだった。けれど彼女の視界には入っていなかったらしい。彼女は「やりたいという子たち全員連れて行った」つもりが「おいてかれた、入れてもらえなかった」私がいたのだ。

そんな折。昔はよく、クラスの担任が紙を配って「好きな子」「嫌いな子」を書きなさいとかというアンケートをとっていた。その時は「誰かに言えなかったけど言いたいことを書きなさい」というテーマだった。
もちろん、それはありがとうでもいいんだろうけど、私はその時の印象が強く残っていて、「ゆりちゃんが、ドッジボールにいれてくれなかった」と書いた。もちろん、無記名である。
が、小学生のこと、「誰、これ書いたの!?」となるわけだ。あっさり、文字から私だとバレ、「そんなことした?」と詰め寄られ、「う…うん」としか言えず。それ以降、彼女とその取り巻きからの標的になり、私も2度とドッジボールやりたいと言える雰囲気ではなくなり、すっかり、疎遠になってしまった。

今、思えば、彼女を二重にも三重にも取り巻くなかで、目立たない私を見落とすなんてありうることだったから、悪意があったとは思えないのだけど、そんな少しのことで、ひどく傷つく私はいわゆる学習障害の繊細さんだったのだろうと思う。

そして、ますます球技は苦手になり、「野球とピッチャーとキャッチャーとバッターがいれば成り立つスポーツやん」という超偏見を持つ大人にそだっていったのである。

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