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8. 28歳白紙の履歴書

2011年28歳にして初めて就職活動を始めることになった。この歳まで就職をしたことがないのは少し恥ずかしかった。


しかし、いざ就職活動を始めてみると意外な事に気がついた。今までの白紙のキャリアが足を引っ張ると思っていたがむしろ、吉本芸人という異色のキャリアが面白がられたのだ。

意外だった。


何しろ人差し指でタイピングしているような人間にお金をもらえる様な仕事が出来るのか。ほぼフリーターのキャリアしかない自分に働ける場所などあるのかなど不安は一杯だった。

初めての就職活動で不安は大きかったが、これから始まる新しい世界にむしろワクワクもしていた。だって、これからはお金に困ることはなくなる。

そうであってほしかった。

お金に困らない生活がどれほど欲しかったか。

ボーナスというとんでもない仕組みにも興味津々だった。

当時はM-1をいつかとって、1000万とるぞ!と頑張っていたけど、その10年近く会社員として真面目に働いていたら余裕で稼げていた訳だ。

会社員ってすごいんだなとその時思ったのを覚えている。(賞レースの優勝賞金安すぎとも言える)

だから一度に大量のお金が貰えるボーナスとは魅力でしかなかった。

給与日に金欠が始まり、1ヶ月お金の心配を続ける暮らしなどもうしたくなかったのだ。

食べたいものを食べて、行きたい場所に行き、きちんと安心して眠りたい。

旅行もたくさんしたい。

頭の中は夢のようだった。

芸人時代のお金の無さは本当に苦しかった。2度と体験したくないと思う。

安くてまずいブレンド米みたいのを買ってきて醤油や塩などの調味料をかけて食べていた。焼肉のタレの日はご馳走だった。当然おかわりはすることは出来ず、満腹になれない日々が続いた。

ただでさえ、まずいご飯をウェッウェッと言いながら食べている時に時々白い壁に黒いやつが出てくる事があった。もう地獄だった。

神様の意地悪と思った。

まずいご飯を用意している間にチャイムが鳴る事があった。居留守をしているとドンドンドンとドアが叩かれた。

チャイムは良い意味の時はあまりなかった。チャイム恐怖症だった。

電気は止められるわ、家賃は滞納するわ、僕を訪ねてくる人は怒っている人か、宗教かしかいなかった。

電気を消してこっそり食べるご飯なんかうまい訳がなかった。頬を流れる涙が、悲しいからなのか、ご飯がまずいからなのかもうよく分からなかった。

あるドラマで、『ご飯を食べながら泣いた事がある人は大丈夫。やっていける』そんなセリフがあった。僕はめちゃくちゃ分かる!とその時思って涙したものだ。

お金がない。腹が減る。これは本当に惨めで辛い。経験しなくて済むなら誰にもしてほしくない。

そして、ご飯だけではない。みんなは連休などの休日には旅行へ出掛ける。僕は休みは腐るほどあったがお金がなく旅行などほとんど行けなかった。

でも、旅行がしたかった。元々旅行が好きだったからだ。お金さえあれば。。。

吉本からの給料明細は律儀に毎月届いていた。中学生の小遣いでももっと貰ってるわ!と言いたくなる様な金額の明細でもきちんと届いた。

1000円に満たない明細。一番安いので50円というのがあった。

それは旅行など行けるわけないのだ。

だから、芸人時代は給料が入ると妄想で旅行をした。

行った事のない大きい公園などを調べて自転車で行く。地図で調べるのがミソで、少し旅行っぽくなるのだ。

その際に必ず音楽を聴きながら自転車に乗る。それが、車を運転してどこかへ行っている気分になれたからだ。

気分がいい時は自転車の縦列駐車だってした。

そして、帰りに近所の銭湯に行き疲れを癒す。旅館のお風呂を想像しながら、かなり長い時間ゆっくりする。

風呂上がりに餃子の満州へ行きビールを流し込む。

公園、銭湯、餃子でビールの流れが全ての嫌なことを忘れさせてくれる妄想旅行の時間だった。

いくらもかかっていないが、これだけの出費でも生活は厳しいスタートになった。

だから就職したら給料日にお金がなく、心配や不安に押しつぶされるような暮らしはもうしたくなかった。

就職活動をすればするほど新しい暮らしには希望を感じていた。

ハローワークに通い始めてまもなく就職は決まった。思いのほか苦労はなかった。僕は某カー用品店の正社員としてピット作業、販売をすることになった。

車の知識は皆無だったが、サービス業は元芸人というキャリアを存分に活かせると思った。実際、販売は他の社員より上手かった。今まで路上で見知らぬ人にお笑いライブのチケットを売ってきた経験はここで活躍するためにあったのだと言わんばかりに。


職場では元吉本芸人ということで、たくさんの事を聞かれた。

誰と同期なの?

誰々には会ったことあるの?などなど。

会話ではどんな話題でも入っていく努力をしたし、誰かがボケればツッコミを入れた。

とにかくそれだけに全振りをしていた。

その時はそれが仕事として正しい振る舞いだと信じてやまなかったからだ。

仕事内容は大変でとても覚えられなかったが、元芸人として仕事を全うしようと思った。それしか出来ないし、それが求められていると信じていた。今思えば非常にイタいが当時の価値観ではそれ以外に正解はなかった。


店長が僕にイライラしているのに気付いたのは入社して半年ほど経った頃だった。お客様からの質問をインカムで聞いた時だった。

インカムが壊れるかと思うほどに怒鳴られた。元芸人として働いていたが、それが仕事を舐めていると思われていたのだ。仕事を舐めてるなんてとんでもないが、舐めていたのかもしれない。


これを機に僕は退職をして、その後の働き方を大きく変えることにした。

販売は売るためのトークは答えが見えているが、心が痛む様では向いていない。キャリアチェンジを目指そう。

人と関わる仕事はやめよう。

芸人だったことを全面に押し出すのもやめよう。

目の前の作業をもくもくこなせる仕事を探そう。

キャリアが薄いからと悪条件を鵜呑みにするのはやめよう。

何か面白い事やってよと振られた時に相手にするのはやめよう。

そう決めたのだ。

そこから現在に至るまでの13年、3回程転職をした。

今では面接以外では芸人だったことを自分からは言わないし、社会人として出遅れた分は誰よりも真剣に取り組んできた。

仕事は舐めていない。

温泉ソムリエと言う面白資格を始め、パソコンのExcelの資格で2級までとり、工業系の資格などを履歴書に書けないくらい多数取った。他にもコーチングのセミナーに出たり、苦手分野のセミナーにもお金を払って参加した。

キャリアチェンジを何度かするうちに同級生と並んでも恥じないくらいにはなってきた。

セカンドキャリアでは貧乏もした事がないし、やりたい事も全てやってきた。仕事で大きな成果こそ挙げられていないが、コツコツとやってきた自負はある。


お金と努力で手に入る物はある程度手に入れてきた。


しかし、どうしても手に入らない物が一つだけあった。そのある物に10年以上苦しめられていた。自分という小さな箱から出る事が出来ずにいたのだ。

僕は前に進むために、2023年ある決断をする。吉本の東京NSC13期の同窓会を開こうと思ったのだ。何となくの思いつきが自分の人生に大きな気づきを与えてくれるとはこの時は思っていなかった。



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