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「いい写真」の話 part5

こんにちは。
あれ?part5ってなによ?
前回で終わりじゃなかったの?

そのつもりでしたが、また思うことがあったので😅 ま、こんなこともあるよね🤗


自分の撮った写真に確信が持てないのには機材の進化による撮り方の変化もあるかもしれません。

割と最近になって知ったことで、今時のカメラマンはファインダーを覗かないで撮るってこと。

嘘〜!何で?

最初に聞いた時はビックリしたけど、確かにファインダーのないカメラも多いし、これほどカメラが進化してもファインダーの見やすさは昔のカメラの方が断然よかったり。


ファインダーを見ない人の言い分には、なるほど!一理あるとも思います。

ノーファインダー撮影による日常とは違った
アングルからの視点は、確かに斬新で面白いし、加えて高速連写が意図しない一瞬を写し込んでたり…

際限なく撮れる最新のデジタル環境ならではの撮り方で、あとでPCで確認してみたら…

あっ、写ってた!
撮れちゃった! 

って写真。

いい写真=面白い画像 で、

結果が絶対に必要なら確かにその方が結果は残すだろうなぁーって思うし、意図したものより偶然の出来事の方が面白いのは写真も「笑い」も同じです。

でも、写真ってそれでいいのかなぁ〜と考えてしまう。

何のために撮るのか?
ボクの写真って何なのか?

そこで前回の話になるわけで、

その時、確かにそこにいた自分
AIには作れない自分だけの記憶

北海道でのスナップです



何十年か経ってその写真を見た時、果たしてそこに自分は居るのだろうか?一瞬でその場に引き戻してしまうほどの瞬間力をその写真は持っているだろうか?

それは時が経ってみないとわからないし、必ずそうでなければならないとも言わない。機材の進歩による新しい手法を否定するわけではなく、むしろ必要に応じて使い分けたいとも思う。

でも今は、これまで通りファインダーを覗いて自分の意志で瞬間を切り撮ることを基本にしようと思ってます。

追加のpart5 読んでくれてありがとうございます。また思うことがあれば書きます。

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