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人間とは何か①

18世紀、近代分類学の祖であるカール・フォン・リンネは現生人類をホモ・サピエンス(賢い人)と名付けた。

興味深いことには、リンネは自著『自然の体系』の人類の項(ホモ・サピエンスという正式な名称は『自然の体系』第一〇版において初めて登場する)において、「汝自身を知れ」という古代ギリシアの格言以外のいかなる説明も記載しなかったというのである。

リンネはキリスト教的な人間観を首肯しながらも、あくまで近代科学的な観点から、猿と人間とを比較している。その結果、リンネは「猿には犬歯と他の歯のあいだに隙間がある、という事実以外に、人間と猿を区別する特徴を何ひとつ発見することができない」(ジョルジョ・アガンベン『開かれ』 岡田温司・多賀健太郎訳)という事実に突き当たるのだ。

リンネの没後、約250年近く経過した現代生物学の最先端においても、人間とチンパンジーのDNAの塩基配列は約98.8%一致する(逆に言えば、人間とチンパンジーの違いは1.2%ほどしかない)という報告がなされている。

人間と猿とを持ち前の特徴で分類することは、このように非常に困難なことなのだ。それゆえに、自己認識という人類が保持する特性によって、人類を定義づけようとするリンネの慧眼には非常に驚かされる。

『自然の体系』の冒頭の序文を分析すれば、リンネが、「人間のもつ種としての特性は、ただおのれを認識できるということだけである」というモットーにいかなる意味を帰したかについては、一目瞭然である。人間を、持ち前の特徴によってではなく自己認識によって定義するということは、つまり、人間とはそのようなものとして自己認識するものであり、人間とは、人間たるべくしてみずからを人間として認識しなければならない動物である、ということを意味している。
事実、リンネは冒頭から、自然は「剝き出しの地上に裸のままの」人間を、つまり、教えられでもしないかぎり話すことも歩くことも食べることも認識することもできない人間を産み落とした、と記している(Nudus in nuda terra ... cui scire nichil sine doctrina; non fari, non ingredi, non vesci, non aliud naturae sponte)。人間は、人間を超えるときにはじめて人間そのものになるのである(o quam contempta res est homo, nisi supra humana se erexerit)(Linneo 1735, 6)。

(ジョルジョ・アガンベン『開かれ』 岡田温司・多賀健太郎訳)

リンネは『自然の体系』の中で、野生人についていくつか実例をあげ、その体系的な特徴を述べているが、「教えられでもしないかぎり話すことも歩くことも食べることも認識することもできない人間」とは明らかにこの野生人のことを念頭においている。

ヨーロッパの辺境の村々に突如として現れる、ヒトによく似てはいるものの、およそヒトとはかけはなれた特徴を持つ(四足歩行で言葉をもたず、赤裸で体毛に覆われている)この非人間性の使者は、これまで自明であると思われていた人間のアイデンティティを揺さぶりかけ、「人間とは何か」という永遠のアポリアを人類に課したのである。

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