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人間とは何か②

神学的な視点から

ルネサンス期の哲学者、ピコ・デラ・ミランドラは『人間の尊厳について』と呼ばれる弁論の中で、「人間とは何か」という問いを神学論的な立場から検討している。

創世記によれば、神は森羅万象を創造した後、最後に自らを象った人間を生み出したとされる。だとすれば、万物が上位、中間位、下位の各位に配分された後、創造された人間はいかなる原型も、一定の場所も、序列も持ちえなかったはずであると、ピコ・デラ・ミランドラは考える。それゆえ、自らにふさわしい「固有の相貌」を持たない人間は、動物の姿や神の姿に合わせて、自分を絶え間なく形作らなければならないのである。

このような、動物との比較によって「人間とは何か」を問い直す考え方は、ルネサンス期以前のキリスト教神学から既に顕著であった。『神学大全』を著したことで有名なトマス・アクィナスは、その著書の一節において人間と動物の関係をめぐって行われる「認識経験」について論じている。

トマス・アクィナスによれば、アダムとイヴが神の禁を破って、楽園を追放されてしまう以前、人間は肉体的必要のために動物を必要とすることはなかったのだという。例えば、私達は衣で身を包むために動物の毛を用いることがあるが、それは失楽園以前のアダムとイヴには無縁な話であった。というのも、知恵の木の実を食べる以前の彼らは、自分が裸であることに羞恥心を覚えることがなかったため、肌を隠すための衣服もまた必要としなかったからである。また、アダムとイヴはエデンの園の樹木から栄養を得ていたので動物を食べる必要がなく、自分の肉体が強靭だったために移動や運搬手段としての動物も必要ではなかった。

それでは、エデンの園における動物たちは、如何なる神の思惑によって人間たちの楽園に配置されていたのであろうか。トマス・アクィナスによれば、人間たちが動物を必要としたのは、「おのれの本性から経験的認識を導き出すため」(ジョルジョ・アガンベン『開かれ』 岡田温司・多賀健太郎訳)であったという。

ピコ・デラ・ミランドラは、人間は固有の相貌を持ちえないために、絶え間なく自らを動物や神として形作っていくものと考えていた。トマス・アクィナスもまた、人間は動物という人間ならざるものとの対比のうちに、自らの人間本性を経験的に認識していくものだと捉えている。

人間と動物の境界

ところで人間との比較によって、理性の裡に立ち現れてくるこの動物というものは、動物学の研究対象となる動物とは性格を異とする。古代ギリシア人は自分たち以外の民族を、バルバロイ(醜い言語を話すもの)として排除していた。中世においても、キリスト教圏は教化されていない地方の人たちを、動物的な未開人という意味でバーバリアン(野蛮人)と呼んでいる。人間と非人間、内と外、善と悪とを決定し、分別するこのような包摂と排除のプログラムは、何万年に渡る人類の歴史の中で幾度となく繰り返されてきた。その帰結をなすのが、大戦期におけるホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)である。六百万人ものユダヤ人を非人間として排除し、強制労働の末に組織的に殺戮するという、この気違いじみた途方もない企ては、西欧社会における理性主義の終焉を告げるには十分であった。

大量虐殺を計画し、実行に移したヒットラーやナチ党幹部を非人間、ひいては怪物であると非難することは容易い。しかし、それでは私達は彼らと同じ過ちを繰り返してしまうことになるだろう。人間と非人間と分別する行為が大量虐殺を生み出してしまったとするならば、私達は永らく続けられてきた方法論自体を問い直す必要がある。そうでなければ、私達はこれからも誰かにとっての動物であり、また怪物であり続けるだろう。


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