見出し画像

黄金の便器



1.引き裂かれた身体 

気まずい沈黙を打ち消すように、くだらないお喋りを続けよう。紫煙を吹かし、安酒を食らい、カーラジオから流れ出すオルタナロックに夢中のような振りをして。こんな自分には心底うんざりしている。世界中のあらゆるものが引っくり返ったかのような大騒ぎ、そんな最中でも俺の心はどこまでもさめている。言語と論理でもって陶酔を囲繞することはできない。その逆もまた然りだ。

頭のなかで、ひとつの疑問がぐるぐると回っている。俺は母親から愛されているか?俺は母親から愛されているか?俺は母親から愛されているのか?理性が導く回答もまたひとつだ。答えは否!否!否!

静脈に注射器の針が射しこまれると、シリンジ内の透明な液体と唐紅色した血液が混ざり合う。無修正のポルノより、ずっとエロティックなイマージュ。アクセルペダルを踏み込むと車は加速を続け、カーライトが前方の冷たい夜闇を次々と切り裂いていく。口づけを交わすと歯みがき粉の匂いというような、そんなお定まりの夜はいらない。唇を合わすと舌を嚙みきられる、そんなイカれた夜が欲しい。

心臓は生成した血液を、駆け抜けるような速度で身体中に輸送する。脳味噌はアドレナリンやらβエンドルフィンやらを過剰分泌させ、俺に「死ね」という至上の命令を与える。これは大いなる矛盾だ。スピーカーからハロー・グッドバイが流れている。さようなら、こんにちは。

その言葉の意味するところは、次のような寓話で説明できるのかもしれない。愛の誓いを立てようと花婿がヴェールをめくると、そこにいるのは見知らぬ女性。しかし、花婿はそれに気づかないふりをして、赤の他人と誓いのキスを交わす。なぜか。一人の女に抱きしめられた経験のないものは、全宇宙から見放されたような気分になるからだ。俺は対向車線へとハンドルを切る。ヘッドライトが接近し、クラクションが悲鳴を上げる。きらきらとした光の洪水が背後へと流れていく。暗転。

気が付くと、そこは公衆便所の中。どうやら、用を足している最中に、正体なく眠りこけてしまっていたらしい。便所の壁は無数の瞬間、無数の男たちが残していった無数の気分で埋め尽くされている。例えば、眼の前にはこんな文章。政治家とは優れたコメディアンに他ならない。その横にはこう刻まれている。世間ってやつは、まるで面接官のように「何故?」と問いかけてくる。その横にはこう刻まれている。魚だって溺れる。その横にはこう刻まれている。俺が震えているのか?それとも震えているのは世界の方か?その横にはこう刻まれている。スベテマヤカシ。

天体。歴史。セックス。心臓。言葉。空気。ドラマ。血液。ありとあらゆるものがピストン運動を繰り返す。新作の映画を観ている最中に、誰もが覚える幽かな違和感。デジャヴ。これと同じものを遠い昔にどこかで観た。そんなはずはないと思いながら、俺は大脳皮質の底をゆっくりと撹拌して旧い記憶を探っていく。そして、思い至る。往年の映画の数々。使い古されたドラマのワンフレーズ。世の中のすべてが、絶え間ない反復運動を繰り返す。俺たちの語る言葉は誰かの言葉の引用の、引用の、引用の、そのまた引用に他ならない。そうだ。言葉はとうに出尽くした。ならば、俺たちはもう黙るべきではないか。

けれど、かつてブコウスキーは言った。「書こうとするな、ただ書け」と。俺は無数の瞬間、無数の気分を刻み込んだ無数の男たちの列に加わろうとしている。そして、君は壁に刻まれた無数の墓碑銘のひとつになる。

「皮膚と衣服の接点にエロスは宿っている。禁止と汚穢の境界に聖性は顕現している。君と俺の間には空無が開けている」

精神病棟の待合室に捨てられた誰かのメモパッドにも、きっと似たような文句が並んでいることだろう。今日では、誰しもが飼い慣らされた狂気に苛まれている。狂人たちは自らの狂気を自覚し、定期的に精神科へと通う。処方された薬を規定通りに服飲し、役所で障害者手当の交付手続きを行う。狂人の速度で眠り、話し、踊る。

狂人たちは善人面をした医師たちの手によって治療されることを望まない。自らの懊悩を、苦悩を、脳内で分泌されるセロトニンの欠如といった化学的作用で説明されることを好まない。バタイユが指摘するように人間を襲う最大の害悪とは、人間の実存を隷属的な器官の状態に貶めることなのだ。狂人たちはこれまで馴れ親しんできた、ありきたりの狂気より正常で健全な世界認識という、間主観的な枠組を強要されることに恐れを抱いている。

拒食症の少女は、自らが肥満体であるという不合理な強迫観念ーそれは間主観的権威性の内面化に他ならないーを抱き、あるがままの身体、この《わたし》という身体を否定する。しかし、理想の身体を目指そうとする彼女たちの不安が払拭されることはない。なぜなら、彼女はどこまでいっても《わたし》であって、他の《誰か》であることはあり得ないからだ。

まるで穴の開いたグラスのようだ。何もない自分を見るのが嫌だから、いつもグラスを他人で満たしていたい。でも、注いでも注いでも中身は穴から零れていくばかり。底から覗くのは何もない自分。少女たちは強迫的にグラスに他人を注ぎ続ける。主体は拭いさることのできない外傷体験との関係によって、世界の中に規定されている。逆説的ではあるが、人は内なる異常を斥けようとして狂気に陥るのだ。


2.私という他者

ハンガリー出身の亡命作家であるアゴタ・クリストフは、生活の必要性から亡命先のスイスでフランス語を習得した。しかし、それは幼少期から培ってきた母国語的世界観を破壊し、彼女に全く未知の世界観、すなわちイデオロギーを強要するものだった。そのため、クリストフはフランス語を敵語と呼んで、忌み嫌っている。

イデオロギー(ideology)は、ギリシャ語で観念を意味する「イデア(idea)」と、言語を意味する「ロゴス(logos)」の混成語だ。言語は俺たちに共約可能な幻想を押し付ける、外在的な権威に他ならない。フランスの思想家、バタイユは次のように書いている。

われわれは、生を耐え忍ぶのに必要な麻酔薬として、生とともにこの不明瞭な幻想を受け入れている。だが、麻酔中毒から覚めて、自分たちが何者であるのかを知るとき、われわれはどうなるのだろうか。そのときわれわれは、夜のなかで、無駄話からくる光の見かけを憎むほかなく、饒舌家たちの間で途方にくれるのだ。

(バタイユ『内的体験』江澤健一郎訳)

ランボーは見者の手紙と呼ばれる書簡の中で、「私とは一個の他者である」と書いている。「私」とは語られたものであって、「わたし」自身ではない。もし、誰かが余すところなく「わたし」を理解しようと努めたとしても、それは「わたし」の外縁をなぞるに過ぎない。「私」とは外的な権威、価値、目的によって生み出された、「わたし」とは最も遠い他者であるといっていいのかもしれない。

しかし、俺は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの有名な定式などより、言語によって言語そのものを異議提起しようとする、バタイユやクリストフの無謀な試みにこそ心を惹かれるのだ。

意識の監視網を掻い潜り、閾値を乗り越えようとする支離滅裂な言葉の奔流を、外在的な方法論でもって説明することはできない。それでは木を森に置き換えるが如く、オリジンを見失ってしまう。古代において、「話す」とはすなわち「放つ」であった。言葉は話者によって放たれた瞬間から、その本来の意図を離れて独立する。どのように読み取るかは、対話者の想像に任せなくてはならない。


3.フラジャイルな権力

キリスト教は、神を絶対の存在者とする一元論的な考えを採る。ところで、万物がすべからく神の被造物だとするならば、悪魔もまた神が創造したものでなければならない。権威はその支配の外側に、支配の及ばない異質性(叛逆者)を措定する。叛逆者、すなわち悪しきものは、神の権力の強大さと正当性を誇示するために必要な存在なのである。キリスト教はサタンやルシフェルを、教義の中心に据えることでその神権を確立してきた。この山師の神は、現在では国家や民族などと呼称されている。しかし、皮肉なことに権威が権力を維持するためには、常に権力の外部を措定していなければならない。すなわち、全能の存在者であるはずの神は、至高者となることは絶対にできないのだ。

俺は白痴の目でものを見て、白痴の耳で音を聞こうと思う。白痴は決して「すべき」などという下卑た言葉は使わない。白痴は俺たちのように絶対的な観念があるのだなどと嘯き、それを他人に強要するようなことは決してしない。彼らはデカルトのように慎重で、真実というものに懐疑的だ。彼らはコギト・エルゴ・スムの原則に従って、ただこう言うだろう。

        「僕はこう思う」

「すべき」だなどと威圧的な言葉で他者を牽制する知識人というものは、ひどくイデオロギー的で排他的な人種だ。彼らは物事を「正/不正」という二分法で区分けし、正しくないと判断した人や、その意見に対して猛攻撃を仕掛けるのだ。戦争が必ず「健常者」と呼ばれる人達によって企てられるのは、健常者がすべからく観念論者であるからに他ならない。俺は白痴になりたいと思う。白痴は政治的に無力だ。白痴は「すべき」という権力を振りかざす権威に対して決して敵わない。それでも、白痴の気まぐれで気ままで気のいい「思う」という在り方は、時に「すべき」という権力をも飲み込む至高の力のように俺には思えるのだ。


4.Toilet Bowl Babys

朝起きるとそこはカビ臭い布団の中で、俺は自分自身に磔にされている。バスルームの鏡に映る無機質な男の顔より、ショーウィンドウ越しのマネキンの方がよほど温かみのある顔をしている。この部屋以外の何処かへ、逃げ出したくなるような夜がある。しこたま酒を飲み、俺という存在を忘れてしまいたくなる夜が。天井のシミが笑いかけてきて、永遠に続くかと思われるような夜が静かに落ちてくる。闇はいつだってアナーキーだ。そいつは一切の綱領を認めないし、一切の様式を超脱する。

子供の頃、君はいつも素面でそれでいて幸福だった。テレビゲームに熱中して、気がついたら朝を迎えていたあの頃。しようもないギャグで笑いすぎて、呼吸困難に陥ったあの頃。雑踏の真ん中で、大声をあげて泣き出したあの頃。あの日、あの時、あの瞬間、君は確かに生きていた。掌で宇宙を握りしめているような、そんな感覚がいつだってあった。それが今はどうだ。ストレスという放射線に曝され続けた結果、君の感情はすっかり磨り減ってしまった。

目の前で起きる出来事も、まるで海を隔てた見知らぬ国の物語のように、空虚で現実味を欠いている。それは言うなら、舞台裏の異化効果。あるいは、夢で取り交わした約束。あるいは、原子心母。あるいは、マネキンたちのおしゃべり。あるいは、絶対安全剃刀。あるいは、縫い付けられたスマイル。あるいは、ガラス越しのセックス。あるいは、第三者の死。あるいは、魂の割礼。酒と薬の力を借りて、前頭葉をぐずぐずに蕩かしてしまわなければ、君は誰かと肩を組みあい、笑いあい、殴り合い、罵倒しあうことができない。心の底から誰かを愛し、いま生きているのだと実感することができない。

きっと今夜も、あの多弁症の男は唾を飛ばして語らずにはいられないだろう。翌日になって、語りすぎたことを後悔するのに決まっているのに。男は嗚咽にむせびながら、くだらない馬鹿話を続けずにはいられない。野次馬どもはビルから身を投げようとする見ず知らずの親父見たさに、わらわらと集まってくる。親父の脳漿がアスファルトにぶちまけられる瞬間を、シャッターに収めんと今か今かと待ち焦がれてる群衆たち。しかし、彼らは極めて善良な人たちで、その多くはスプラッター映画すら恐れて観ようとはしない。

なぜ、君は精通した小学生のように罪の意識に怯えているのか。なぜ、君は買い物に出かけたきり、三年も帰ってこない妻を待ち続けているのか。なぜ、君は殺菌室で死んでいくウイルスのために泣くのか。なぜ、君は世界の果てへ行きたいという少年に、その電車は茅ヶ崎までしか行かないということを教えてやらないのか。なぜ、狂気の男は亡き妻の面影を娘に重ね見て、その青白い肢体を夜な夜な求めるのか。なぜ、医師は手術台で患者を犯そうとするのか。そしてなぜ、患者は激しい苦痛と罵倒の言葉の中で絶頂を迎えるのか。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。

言葉は擦り切れ、疲弊し、悲鳴を上げながら、仄暗い澱みの底へと沈んでいこうとしている。黄金の便器の中で君は言葉とともに溺れている。溺れていない者の言葉など、君の耳には届かない。地に足をつけた者の説教や慰めが、君の胸を打つことが果たしてあるだろうか。君のことを真に理解し、言葉を紡ぐことができるのは便器の海で溺れたことのあるものだけだ。はじめに言葉があった。言葉とはすなわち光のことだ。神は浮浪者に身を窶して、この世に再臨するだろう。ホームレスの神は言う。

    「捨てられたものこそ幸いなり!」

シニフィエとシニフィアンの境界面上で、君は悟りを得る。ニュースキャスターは機械よりも機械らしく、狂気を知らずに誰よりも狂っているのだということ。君は母親の膣にこびりついた、精液の残り滓から生まれてきたのだということ。男たちが馬乗りになって犯す少女は、何者によっても瀆されえないのだということ。ひとりぼっちの核弾頭は発射台の上で、いつか大空を飛びたてる日を夢見ているのだということ。モノクロームの部屋で生まれ育った少女は、チェレンコフ光に包まれた時に初めて群青色を知るのだということ。さよならとこんにちはの交差点で、誰もが新しい言葉の誕生を知るのだということ。ハロー、グッドバイ。出会いはいつだって別れと抱き合わせだ。愛犬は動かなくなった主人を起こそうとするうちに、舌に走る甘い電流に我を忘れてしまう。目の前に転がる肉塊はあまりにも甘美で、「ああ、自分はどうしようもなく犬なのだ」と気づいた彼の哀しみに、君は寄り添ってやることが出来ない。街頭の片隅に響いてくるのは、自殺者たちのバラード。

「ただ、いずれ至る破局を先伸ばしにしてるだけなんだ。走者がホームに戻ることがゲームの目的ならば、いずれ僕もホームに戻らなければならない。そして、その時は刻一刻と近づいているんだ。僕にはそれが怖くて怖くてたまらないんだよ。愛が欲しいって呟いたら、煙草屋のばあさん、カウンターの奥から古ぼけたガチャポンを持ち出してきた。万札入れてハンドルを右に回してみな。運が良ければあんたの手元に愛が落ちてくるさ!僕はポケットの中を必死に漁ったけれど、出てきたのは小銭とピースの空き箱だけだった。僕は自嘲気味にばあさんに言ったよ。僕が欲しいのは平和じゃない。僕はいつだって愛が欲しいんだ!昨日と同じ今日、今日と同じ明日がやってくる。そこには僕はいないけど、そんなこと誰も気づきやしない」

死を規定するのはいつだって他人だ。人は誰しも死にゆくが、死を経験しえる者は誰一人としていない。それは《ねばねばしたもの》、君が掴んだと思った瞬間には、君自身を掴みとって離さないもの。語りえないものについては沈黙しなければならないという、ウィトゲンシュタインの主張は正しい。言葉は光だ。それは世界を明確に分節したが、曙光を縁取る闇に対しては全くの無力なのだから。

しかし、君は考える。果たして本当にそうだろうか。もしかすると、語りえないものを語ろうとするバタイユの倒錯的な態度、それこそが真に称揚に値するものではないか。溺れる者について語る者は、彼とともに溺れなければならない。不可能なものについて語る言葉は無力さに打ちひしがれ、その意義を完全に見失わなければならない。

君は叫ぼうとしている。言語の外部にはみ出る肉声を。バルトが《喪》と呼んだものを。盲の目で見て、聾の耳で聞き、唖の口で語れ。形なき図形について。あるいは、黄金の便器について。あるいは、片手による拍手について。あるいは、実用的なトマソンについて。あるいは、戦場を飛び交うコルクの弾丸について。あるいは、溺れる魚について。あるいは、オールドレディのピンナップについて。あるいは、轢き殺された青い空について。あるいは、ひとりぼっちの独裁者について。あるいは、崖っぷちのワルツについて。君はザネリだ。君は語られたものから逃れられずにいる。なぜって、語られたものは決して変質することがないのだから。身代わりとなって死に続けるカムパネルラのために、君は狂ってやることもできない。いや、君は彼が死んだことにすら気づいてはいない。君はただ、自らの愚かしさのために溺れるばかりだ。

溺れろ。誕生とともに便器の海へと落下していく、子供たちとともに。あるいは、糞とともに便器の海に流されていく、金魚たちとともに。神に、作者に、母親に捨てられたものこそ幸いなりだ。酸っぱい葡萄。キリスト教徒の強がりにも似た君の言葉。それが誰かの嘲笑と顰蹙を買うのであれば、君にとってこんなにも愉快なことはない。いや、違うな。それは真実ではない。言葉はイデオロギーで満ち溢れている。言葉の中をいくら探しても君は見つからない。しかしまた、言葉をいくつも積み重ねなければ君は見つからないのだ。右手で記した言葉を左手でかき消すように、そうやって無為に言葉を紡いでいかなければ君は君自身を見失うだろう。

それは書かれたものの中にあって、その外部にはみ出るもの。中性、中間、中庸、中道、ニュートラル。例えるならそれは、パブリックスペースに設置された核ミサイルの発射スイッチ。あるいは、ママのおっぱいより先につかまされたトカレフ。あるいは、世界を平等に更地に変えてしまう爆弾。便所の落書きと一緒だ。言葉が擦り切れ、疲弊し、悲鳴を上げている。そんな世界の片隅で、君は溺れるカムパネルラを見つけだす。溺れる彼の身代わりに君は溺れ、そしてまた救われなければならない。

太陽と大地。両者を懸想したことにこそ、水の悲哀がある。水は大地に恋狂い、我が身を引き裂いて雨露となり、大地を犯そうと地上に降り注ぎ、それは大地の一部となる。しかし、他方で水は大地を穿つと共に、溜まり、横溢し、うねりを作り、太陽に見蕩れて空へと昇る。そしてまた、思慕の情の高まりとともに大地を濡らすのだ。円環構造。それは悠久の時より繰り返され、永久に続いていく恋人たちのシステム。恋人たちは断絶を乗り越えようと、番い、結び、そしてまた引き裂かれる。救いはないが、ゆえに美しく至純な愛のシステム。

動物と人間。労働と遊び。巫女と遊女。誕生と腐敗。天足と纏足。ノモスとピュシス。陰と陽。シンメトリーとアシンメトリー。ロゴスとパトス。横溢と枯渇。痴愚と叡知。農耕民族と狩猟民族。排除と包摂。直線と曲線。エリニュスとエウメニデス。口唇と肛門。清浄と汚穢。ノエマとノエシス。万考と無想。天動説と地動説。地と図。アベルとカイン。地球と反地球。バナナと石。マチとムラ。常民と非常民。内と外。主人と奴隷。必然と偶然。此岸と彼岸。好運と権力。能動と受動。悲哀と歓喜。ハレとケ。神と私。我と汝。親と子。主体と客体。天皇と臣民。囚人と監守。神話と科学。自力と他力。本質と仮象。全と一。受胎と堕胎。連続と断絶。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学。ダヴィンチとミケランジェロ。現世と常世。ますらおとたおやめ。貴族道徳と奴隷道徳。加虐と被虐。欲求と欲望。満月と新月。ストゥディウムとプンクトゥム。売春と買春。精神と身体。無私と利己。功と罪。荒魂と和魂。善と悪。天と地。勝者と敗者。タカ派とハト派。西と東。戦争と平和。無為と当為。エロスとタナトス。安心と不安。リアルとイデアール。作者と読者。自罪と原罪。造物主と披造物。非知と絶対知。繁栄と衰退。肯定と否定。統合と分裂。保守と革新。演者と観客。美と醜。定言命法と仮言命法。彼は誰と誰そ彼。義理と人情。停滞と変化。涜神と敬神。正統と異端。快と不快。正常と異常。偏在と遍在。聖典と偽典。企投と被投。資本主義と共産主義。貞淑と淫奔。有と無。溺れるものと救われるもの。自殺と他殺。頭部と陰部。即自と対自。歩行と舞踏。父性原理と母性原理。出会いと別れ。永遠と瞬間。過去と未来。生と死。真実と信念。SOLとQOL。天人唐草とオオイヌノフグリ。可能態と現実態。禁止と侵犯。信仰と理解。アプリオリとアポステリオリ。愛と無関心。喜劇と悲劇。アポロンとディオニュソス。混沌と秩序。地母神と天空神。子宮と墓穴。聖と俗。法と倫理。氷点と沸点。重力と恩寵。金と銀。癒しと呪い。同質性と異質性。全体性と無限。疑惑と信用。反省と純粋経験。生産と消費。交換と贈与。君と俺。君は湖面に映る俺をみている。俺もまた湖面に映る君をみている。決して到達し得ないし、理解し得ないもの。俺たちはできそこないのパズルのピースだ。

神代の昔、地上は深海のような夜の底に沈んでいた。凍てつく昏闇をかき泳ぐかのように、恐るべき獣たちは大地を闊歩している。ひとりぼっちの人類は洞穴の奥で震えていたが、それは体温を奪う夜気のせいばかりではなかった。迫り来る死の影を前に半狂乱になった彼は、すがるように自分以外の誰かを求めた。そこで初めて、世界に私と他者が生まれた。初めの言葉。君と俺。神は言った。光あれと。光とはすなわち言葉のことだ。世界に光が満ち、人々は恐るべき自然を開拓する術を手にした。プロメテウスが神々から盗んだ文明の火、それもまた光であり言葉の暗示である。しかしまた、人はオリジンであるくらやみを求めてもいるのだ。

人が胸を焦がすには千の凍てつく夜がなければならず、物言わぬ死体になるには億の言葉がなければならない。無月の荒野に潮騒は鳴り響き、首なし菩薩は無頭を掻きむしり、人を愛したいと歌う怪獣は人から愛されるのを恐れている。ヘンリー・ダーガーの描く少女たちのように、言葉が占める価値は汚辱され、現実は舞台裏へと退き下がらねばならない。

いま、救世主は十字架に磔にされている。最大多数の最大幸福。九十九匹の幸福のために、一匹の羊は血を流さねばならない。しかし、君が愛するのは人の罪を贖う神の子などではない。父親に恨み言を唱える、愚かでちっぽけな人の子だ。君は一匹の羊のために、九十九の羊を見殺しにしようとしている。滅び行く悪徳の町を振り返ったがために、ロトの妻は塩の柱となった。しかし、誰が彼女のことを責められるだろう。人は過去を振り返るものなのだ。救われたがために罪の意識に苛まれるものたち、隣人とともに底まで溺れなかったがために断罪を待ち望むものたちを、誰が不合理だと笑うことができるだろう。人は罪に溺れるものなのだ。

人の子はこの世に二度生まれ落ちた。初めは血と糞尿の臭いにまみれながら、二度目は青白く光る墓石の下より這い出して。君は穴から生まれ、またいつしか穴へと還っていく。母とは穴だ。子宮であり、墓穴でもある。君がやってきて、いずれは帰ってゆくところ。伊邪那美、イシュタル、ペルセポネー、イシス、キュベレー、木花咲耶。君を包み込み、また吞み込もうとする母なるものの原型。神話は語る。誕生と死の暗示を。

右手で地蔵菩薩を拝みながら、左手はその襟巻に手をかけて、格子縞の蛇と目が合った蛇神崇拝の夜。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは弟妹に、積んでは崩す回向の塔。救いを求めて東に流離えば君を抱擁するマリアはおらず、罪を求めて西に流離えば君を罰するヤハウェはいない。家という容器から零れ落ちた子供たち、ホームに帰ることが出来ないプレイヤーたちは永遠に子供のままだ。産院の前に捨てられた赤ん坊をあわれに思い、その臍の緒を辿っても行きつく先は自分の股ぐらに過ぎぬのだから。チャコールグレーに揺れながら、コールタールの海を泳いで、母の愛を欲しがるオールドベイビーたちよ。不味い煙草をふかしながら、ゴドーをただただ待ちつづけ、待ち人来たらず日が暮れていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?