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父が僕に送ってくれたエール

僕は聖教新聞に勤めて16年目の記者です。妻、小学1年の息子、幼稚園年少の娘と4人で暮らしています。2019年に第2子が誕生し、翌年にはコロナ禍のステイホームを経験して、子育てにもっと関わりたいと思うようになりました。そうした中、長男が「幼稚園に行きたくない」と宣言。小学校に入学してからも、学校に行ったり行かなかったりという今に至ります。家族と歩む中で、僕自身もメンタルヘルスを崩したり、部署を異動したり、いろいろなことを経験しました。それは、今も現在進行形で、僕という人間を大きく育ててくれています。そんなわけで、「育自」日記として、思い出を含めて書いていきたいと思います。

「どちらを選んでも、その選択は正しいんだ」

「葛藤という言葉は、左から右へ巻く『葛』のツルと、右から左へ巻く『藤』のツルがもつれてほどけないことから、相反する2つのうち、いずれをとるか迷うことを指すんだよね。だから、その2つの概念の明示が必要なんだ」

これは、記事が紙面になる前に日本語のチェックをしてくれる部署の先輩が、かつて私に話してくれたことです。(ちなみに両者のツルの巻き方については、諸説あるそうです)
二回りほど年上の先輩ですが、いつも私の記事を楽しみにしてくれる人でした。記事を回すたびに、いつも勉強になり、「葛藤」についても心に留めていたのですが、〝その言葉を、自分自身に突きつけることになるとはなあ〟と思いました。

2022年の秋、僕は、この先の身の振り方について、悩んでいました。
メンタルヘルスを崩し、薬を服用しながら働いて1年半余り。年が明ければ、息子の卒園と小学校に進学する季節がやってきます。

・このまま今の部署に残って仕事を続けるのか。
・部署を異動して、体調の負荷を和らげ、息子のケアにもう一段階、力を注ぐのか。

異動しない場合と他部署、さらに記者以外の部署への異動も想定し、「仕事のやりがい」「家庭」「健康」の項目を立て点数制でシミュレーションして、合計点を比べてみたりもしました。
しかし、どの選択を想像しても〝人生の選択を間違ってしまったと後悔するのではないか〟という重苦しさが消えませんでした。

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現状の部署で働き続け、実力を伸ばしたとして、〝息子を犠牲にして好き勝手やったことを後悔するのではないか?〟。

他部署で、出張を減らすなど体調の負荷を減らし、息子のケアに時間を費やせたとして、〝もっと磨けたかもしれない、自らの伸び代をつぶすことに、後悔しないと言い切れるか?〟。

どんな答えを出しても、後ろめたく生きるだけでは?――そんなふうに考えた僕は、何か参考になればと、自宅からほど近い実家に、父を訪ねました。

父と僕は、人並みに仲の良い親子だと思います。父が歩んできた会社員人生も、あらまし程度は知っていました。
僕の幼少期、現在60代後半の父が30代だった頃は、バブルが弾けつつも、その余韻が残っていた時代でした。歴史と伝統をもつ、小売業界の会社の本店に勤めていた父は、いわゆるモーレツに働いてきた仕事人です。

30代の頃に辞令を受け、一般的に小売とは縁遠いと思われがちな「イベント」の仕事を担当するようになります。経緯は知りませんが、その業務には熟練の前任者がいませんでした。そこで父は、一から仕事を開拓し、60代後半まで、仕事を担い続けていました。その間には、メンタルヘルスを崩しかけ、最寄り駅まで毎日40分の道のりを歩き、体調を「整えて」いた時期もあったようです。

父が成す仕事は、外注すれば数百万かかる仕事を数十万で仕上げ、外注以上のパフォーマンスを発揮し、ゲストの著名人の方々とも、その次の仕事へとつながる信頼関係を築くものでした。(僕が少年時代から聞かされた本人談ですから、ちょっと盛ってるかもしれませんが)

さて、そんな父へ、僕はこの先のキャリアについて、意見を聞きに行ったわけですが、父は僕の想像以上に、丁寧に、考えを述べてくれました。

懇談は、いつしか僕が相づちを打ち、必要と思うことを質問するという、取材のようになっていきました。せっかくなので、インタビュー記事のように書いてみます。(――部分が、僕の〝質問〟です。ちなみに、父が僕の名前を述べた部分は、「お前」としています。そして、「パパ」という言い方は、そのままです。40歳手前の息子に対して、なぜ未だに「パパ」と言うのかは謎です。ややこしくなる気がするので、その理由は今も聞いていません)

――今の部署で働くことに、やりがいとともに、重圧を感じている。

「お前の記事を読んでいて、1回ごとに研ぎ澄まされていることを感じる。分かりやすさ、主張、構成、立派だと思うよ。文章から、お前が体調を崩しているとは、正直、誰も感じ取ることができないだろう。今の部署で得られることが多いのは間違いない」

「お前は物事をよく考えるから、その分、疲れもするだろう。そこで大切なのは、力を抜くことだ。パパの経験から振り返ると、いつだって周りは勝手なことを言ってきた。やれ客が入ってないだの、やれ経費だけが飛んでいくだの。だけど〝だからどうした?〟と思うことにしていた。そんなもん、やってみなきゃ分からねえんだ。お客が少なくたって、〝事故なく終わったんだから文句ねえだろう〟と答えていた。そんなもんだ、それでいいんだ」

「40数年、パパが、会社組織で生きてきて思うことは、組織は必ず変化するということだ。自分の目の前を多くの人が通り過ぎていった。変わらないと思っていても、1年、あるいは数カ月単位で、人との巡り合わせ、つまり環境は変わる」

――そうであれば、今の部署で力を磨き続けることが財産になるということだろうか。

「パパがお前くらいの頃、仕事が一番大変だった。知っての通り前任者はおらず、それでも形にしていかなければならない。だから、自分は40歳を過ぎた頃から、資格試験を目指したり、社外のマーケティングの専門家に教えを請いに行ったりした。余談だが、お前のように愛社精神があったかというと、少しもなかった。そんなパパが、時を経て、会社を思い、時に進退をかけて提案をするようになった。つまり、そういう自分へと成長する道筋は、スキル(技術)を付ける面からも精神的に成熟するという面からも、いろいろな道があるということを伝えておきたい」

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――今の時代は、困難に直面した際に頼れる人(依存先)を増やすことが重要で、そうした〝弱い人〟がいるチームこそが強い、という考え方が注目されている。例えば、僕が家庭に費やす時間を確保すれば、その経験を糧に良い記事が書けるかもしれない。でも取材の数を増やすことはできない。それは、チームの強さに貢献していると言えるのだろうか。

「それは、チームがどんな価値観を持っているかによる。チームが成果物に対して〝高い質と多様性〟を求めるならば、お前が経験を糧に良い記事を書くことは、間違いなく、強いチームをつくることに貢献しているよ」

「同時に、お前という個人においては、スキル(技術)の次元と精神の次元とを、混同しないことが大切だと思う。スキルは、無いよりもあった方が、仕事の可能性を広げられる。だからどんな環境であれ、できる限りの努力を怠らなければいい。一方で、誰かを頼る(依存先を増やす)ということは、精神の次元において『他人を認める』ということなんだ。〝弱い人〟という言葉に引っ張られがちだが、それは、努力しスキルを得続けながら、他人の価値を認められる人間という意味だ」

「スキルと精神という次元は、パパがいる組織でも、しばしば混同されがちだ。しかし、今話した諸々を、お前が考えているというのは、パパがお前と同年代だった頃と比べて、はるかに優秀だ。驚きですらある」

――それは、僕個人の資質というより、社会の要因が大きいと思う。コロナ禍は、社会の変化を20年分も30年分も早めたと言われる。僕自身、ステイホームで子育てをしてみて、その後に息子のことがあって、自分の価値観を変えざるを得なかった。でも時代の変化の急激さに、自分の意識や力が追いついていないことが、もどかしい。

「お前は社会の変化を感じて、受け止め、自分自身も変わろうとしたわけだ。それ自体、優秀でなければできないことなんだ。大変な部分も出てきたが、工夫をしながら形にしつつある。お前の仕事の成果、そして、2人の子どもとの関わりがそうだ。パパは自分のことばかり大変で、ひたすらママに悩みを話し、励ましてもらっていた。『今日は何回うつになった』とか『もうだめだ』とか言いながら。子育てにもそんなに関われなかった。パパの感覚では、幼いお前が居て、次に気付いた時には社会人になってデカくなったお前が急に目の前に現れた感じがしたものだ」

「お前は、パパの昔の頃よりも、はるかに子育てに力を尽くして、奥さんの苦労を受け止めようとし、また、自分の苦労をぶつけないようにと、コミュニケーションを取ろうとしているよ」

「パパが自らの経験から確信していることを、もう一度言う。今、仕事で周りにいる人々は、お前のそばに居る必然性があるから居る。そして、必然性に応じて、また別の人間たちと仕事をすることになる。その変化は、人から言い渡される場合も、自分で言い出す場合もある。しかし、誤った選択というものは存在しないんだ。マイナスに捉えなくていい。どちらの道を選んでも、その選択は正しいんだ。ましてや、お前には信心がある。信仰という、かなり強固な核が自身の中にある。パパはお前を見てきて、そう感じている」

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以上のようなことを、2時間程、話したでしょうか。その夜、子どもたちを寝かしつけた後、昼間のやり取りを思い起こしました。
父は、母との交際を機に創価学会のことを知り、結婚する少し前に入会しました。日頃、学会の会合に参加することはほとんどなく、参加する集いといえば、正月の新年勤行会くらいです。その父が「お前には信心がある」と強調したことが、僕には少なからず驚きでした。
そして、父との思い出が、記憶をさかのぼって心の中に浮かんできました。

高校生の頃、大学受験の模試の結果か何かの話をしていたら、父が不意にもらしたことがあったな。「自分以外の人間の自慢話を聞いて、うれしいなんて思えるのは、息子の話くらいだな」と。

中学生の頃、人間関係に悩んだ時には、「苦しかったら、学校、やめたっていいんだぞ」と言ってくれた。

小学生の頃、塾からの帰り道の階段で、ゲロを吐いた俺の背中をさすってくれたっけ。

そういえば幼稚園の頃、小児ぜんそくと中耳炎になってしまって、1年くらい、父が出勤時間をずらして、一緒に病院通いをしてくれたんだった。
どうして忘れていたんだろう。

父は昼間、「子育てにそんなに関われなかった」と言いました。

そんなことない。

かつて〝24時間働けますか?〟みたいに言われた時代の中で、そして恐らくは、生き馬の目を抜くような会社組織の競争の中で、父は精いっぱい、できる全てを、僕にしてくれたんだなーーそのことが分かった時、僕はとても温かな気持ちになりました。

幼い頃の僕

それから2週間程たった11月、私は所属していた部署の部長に、「異動したい」とお伝えしました。理由のメインは「体調不良」です。
息子のことも付随してお伝えはしましたが、実際に不安感や疲労は1年半以上続いているので、「少し仕事の負担を緩めたいです」と。

いろいろ考えたのですが、最後は、人のため(家庭のため)としてではなく、自分の問題として決断することが大切だと思いました。人に理由を預けたら、将来、苦しい気持ちになった時に、家族を責めてしまうと思ったから。体調を崩したのは自分、人生の変化を決めるのも自分。〝前へ進む〟のも〝後ろへ下がる〟のも、自分で決断することを、手放したくないと思いました。

部長は僕の思いを受け止めてくれ、職場でも検討をしていただき、12月に辞令がありました。翌年1月からということで、記者職の別の部署、僕自身も持続可能性を見いだせる環境への異動が決まりました。
年の瀬の忙しい時期にもかかわらず、同僚たちが、それぞれに別れの言葉を送ってくれました。

「いろいろ気遣ってくださったのに、応えられずすみません」と、ある後輩から言われました。〝いやいや、俺の方こそ、自分の仕事ばかりで何もしてあげられなくてごめん〟と思いました。

ある同期は、「ルポをやり切ったことが、すごいよ」と言ってくれました。たまげるほど優秀な同僚でした。〝できたら2人で連載を立ち上げたかった〟と、心の中で伝えました。

デスク(記事の監修)を担当してくれた先輩は、「自信を持て。僕が直し(修正)を入れたのは、記事の中で、君が自信がなさそうに書いたように見える箇所のみだった」と言ってくれました。

そして部長は、「また体調が戻ったら、いや、正確に言えば、『戻る』のではなくて、いろいろな経験と思いを昇華して、準備が整ったら、また一緒に仕事をしよう」と送り出してくれました。

傍から見れば、キャリアに挫折したとも、修練から逃げ出したともいえる事態だったと思います。にもかかわらず、共に戦ってきた仲間が、魂を削るような真剣勝負のフィールドから離れる僕を、そのように送り出してくれたことは、少なからず安心をもたらしてくれました。

そして年が明け、2023年がスタートしました。

(つづく)

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