映画『最終目的地』のアンソニー・ホプキンスと真田広之のカップルが「ゲイのお手本」?・・・溝口彰子著『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』

溝口彰子さんの著書『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』で、映画『最終目的地』(監督: ジェームズ・アイボリー、2009年)が取り上げられていた。

この作品では、アンソニー・ホプキンスと真田広之が、ウルグアイの邸宅に住むゲイカップル、アダムとピートを演じている。

『BL進化論』の記載は、以下のとおり。

ピートは 原作小説では、タイ人の設定だが、真田をキャスティングするにあたって、日本の徳之島の貧しい生まれ、と変更されている。そして、14歳で裕福な白人が男性アダムと出会い、恋人としてイギリスに連れて行かれ、教育を受けさせてもらい、アダムがウルグアイに移住するにあたっては、法的な必要性から正式な養子になった。つまり14歳からの25年間のほとんどは、アダムをパトロンとしてきたピートの人生なのだが、物語の実態では、広大な所有地に係る固定資産税の支払いのために、アンティーク家具のビジネスに精を出して、現金を稼がなければと言うピートの方が、稼ぎ頭なのである。 アダムは、老人となった自分がまだ若い人を縛るよりも、別の場所で第二の人生を送らせてあげる方が良いのではないかと悩んでいるのだが、ピートはきっぱりと、あなたと一緒でない別の人生なんていらないと宣言する。 ・・・(中略)・・・圧倒的な経済格差を前提に始まったアダムとピートの関係性は、25年の期間を経て、お互いを純粋に愛し、信頼し、尊敬し合うふたりという大人の関係性へ熟成したということだ。そうして、アダムとピートの美しい愛の関係は、ふたりの名優によって息が吹き込まれ、説得力をもって画面上に存在している。いったん映画と言う表象で描かれた彼らの関係は、 現実のゲイ男性のお手本となりうる。

溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』

まず、第一に、裕福な白人男性が14歳の日本の少年を恋人としてイギリスに連れて行く、というところからはじまる話は、いくらその後「25年の期間を経て大人の関係性へ熟成した」としても、映画や小説としては感動的かもしれないけど、「現実のゲイ男性のお手本になりうる」とは私には思えない。

溝口さんは、「貧しい14歳の日本人の少女が、ずっと年上の男性に海外に連れて行かれて異国で25年過ごし、その男性に、あなたなしの人生はいらない、という」関係についても、異性愛者女性の「お手本」になりうる、と書くのだろうか。

溝口さんは、この映画でのピートの描写について以下のように書いている。

ピートは、映画でも現実でも見たことがないタイプのゲイ・キャラとして描かれている。・・・中略・・・ピートの物腰には、オネエっぽさは皆無だし、ショーン・ペンが演じるハーヴィーや、高橋和也が演じる直也のような、現実のゲイ男性にもあるような女性性と男性性がせめぎあっているところもない。アダムのタイを締めてあげたり、コーヒーを入れたり、訪問者が雨でずぶ濡れになっていれば、タオルを差し出すだけではなく、靴下を脱がせてあげるなど、 家庭内で一般的には「面倒見のいい主婦」の役割をビートがしている事は描写される。だが、この時の彼の物腰は、全く女性的ではなく、キビキビと姿勢の良い、一流のコンセルジュや仕立屋といった職業の男性を連想させるものだ。さらに、40歳直前と言う設定、年齢の割に、少年のような目のきらめきと、キレのある身のこなしが魅力的な人物でもある。

溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』

ずぶ濡れの訪問者にタオルを差し出すのはいいとして、なんで靴下脱がさなきゃいけないの。14歳で連れてこられて、そう訓練されているたのなら、私には辛すぎる。仮に徳之島にそういう習慣があったとしてもやめさせたらいいじゃない?映画のスチールを見て、ビジュアル的にも、アダムがお金持ちのおじさんの服装(ジャケットにクラバットとか)をしているのに対し、ピートは庭師とか猟場番みたいな格好(同じ監督の映画『モーリス』に出てくるアレックみたいな感じ)をしているのが気になった。ビジュアル的には、ご主人様と召使のように見える。

『最終目的地』のアダムとピートはこちら。(画面の真ん中の再生ボタンを押すとピートとアダムが歩いているシーンから始まる。)

『モーリス』の中のアレックの服装は、こちら。(再生ボタンを押すとアレックとモーリスが話しているシーンから始まる。)

ジェームズ・アイボリーは、美術や衣装にとてもこだわってる監督だと思う。立場の違いが衣装で表されていて、それを美しいと思うのは、しょうがないと思うけど。そういう関係性を「現実のゲイ男性のお手本」と言うのなら、私はそうは思わない!と言わざるえない。

アダムとピートの出会いの設定やビジュアルから滲み出てくるものが気になって、どうしても、私は、ある種の白人男性がアジア人男性にもつステレオタイプ・・・いわゆるAsian house boy・・・の影を感じてしまった。

公平のためにいうなら、映画の後半で、アダムは、ピートに邸宅の1/3の権利を与え、それ以降は共同経営者となり、それからはピートの服装も変わってくる。このことを溝口さんは「25年の期間を経て、お互いを純粋に愛し、信頼し、尊敬し合うふたりという大人の関係性へ熟成した」と言っているのかもしれない。
でも、それは対等な関係なのだろうか。この映画では、所有権をピートに与えることは、あくまで、アダムからの恩寵であり、ピートはそれに感激するという構図になっている。14歳で連れてこられ、長年愛人兼女中さんとして尽くした女性が、25年後、正妻にしてもらった、みたいな話のように思える。昔なら「(貧しい)女性の出世の見本」と思われたのかもしれない。

溝口さんが、この作品を映画として評価するのは、もちろん自由だ。というか、実際に映画を見てみると、映像も出てくる人々も衣装も美術も音楽も、そしてかなり現実離れしたストーリーも美しいといえる。アダムとピートの関係も溝口さんの本で文章で読んだときは、かなり不愉快だったけれど、映画で見るとそれほど不愉快には感じない。アダムとピートだけでなく、他の登場人物の関係も行動も設定も、全然現実的ではないけれど、映画の中では素敵に見えると思う。(どれだけ現実離れしてるかというと、たとえば、アダムの両親は若き日にベネチアに旅行したとき二人で乗ったゴンドラをお土産(!)に買ってきて、それが邸宅の敷地内の小屋に置かれている)。

だけど、「現実のゲイ男性のお手本となりうる」と書いていることについては、私はゲイの一人として「そうは思わない」ってことは、言っておきたい。

「現実のゲイ男性のお手本となりうる」と書いてあったら、それは私(現実のゲイ)に対しても言ってることだし、自分が不愉快な時に不愉快な顔をするのも大事、というのは、私がフェミニズムに学んだこと、だと思っている。

私は、溝口さんがアダムとピートの関係を「現実のゲイ男性のお手本となりうる」と発言したことは、ゲイというものが、溝口さんにとってあくまで「他者」であることを示していると思う。

多くのBL読者が(男同士で自分のことじゃないから)レイプを抵抗なく受け入れたように、アジアの貧しい14歳の少年が恋人として外国に連れられていくことも、40歳になって訪問客の靴下脱がそうとすることも、男性同士なら受け入れられる、ということではないか。何度もいうが、それが14歳の貧しい少女の話だったとしても、その後その女性が中年になったとき靴下脱がせる話でも、「美しい愛の関係」と思えるのだろうか?そう思える男性、あるいは女性でも思える人はいるかもしれないが、私は溝口さんがそう思えるとは思わない。

映画を観て、私は、アダムとピートの関係を「現実のゲイ男性のお手本となりうる」とは思わなかったけど、「BLに登場する男を愛する男のお手本にはなりうる」とは思った。
溝口さんが、読んだり観たりする「男を愛する男」の表象は、圧倒的にBLであって「現実のゲイ」ではないと思う。溝口さんがアダムとピートの関係を「現実のゲイ男性のお手本となりうる」と書いたのは、溝口さんの中で、無意識に「ゲイ」が「BLの中の男を愛する男」にすり替わってしまっているからではないか。

第二に、ゲイ当事者ではない人が「現実のゲイ男性のお手本となりうる」と述べること自体に大きな違和感を感じる。レズビアンではない人が、レズビアンの登場する映画を見て「現実のレズビアンのお手本となりうる」っていったら、相当違和感があると思う。いや、単に男性が、映画に出てくる女性を「現実の女性のお手本になりうる」と言うのも相当変だと思う。

ほとんどのBL読者は、BLあるいはゲイが登場する作品に感動したとしても、さすがに、その作品が「現実のゲイ男性のお手本になりうる」とは、言わないのではないか。

さっきも書いたように、映画を観て自分が感動した、というのはいいと思う。でも、「現実のゲイ男性のお手本となりうる」という判断(?)、アドバイス(?)ができる、と思う気持ちがわからない。「BL研究家」だから?でも、BL研究家ってBLの研究しているのであってゲイの研究をしているわけではないのでは。さらにいうとゲイを研究している人であったも、映画の登場人物について「現実のゲイ男性のお手本となりうる」とは言えないのではないか?アイヌの研究している人が(一人のアイヌ当事者としてはなく)、フィクションに登場するアイヌについて「現実のアイヌのお手本となりうる」と述べるのはおかしいと思う。

これは、「女性の正しい生き方を男性が諭す」というのと似たことのように思う。先日、嶋田美子さんの個展で見た「おまえが決めるな」という作品を思い出した。

第三に、『最終目的地』のアダムとピートの関係が、「現実のゲイ男性のお手本となりうる」と言うことは、溝口さんが日本のゲイ男性の関係の現実も物語も、この関係にははるかに及ばない、という認識を持っているということを言外に示していると思う。

この文章を溝口さんは、こう締めくくっている。

誠実な想像力を持って、「ゲイ」キャラを現実よりもより望ましい姿に進化させるのは、BL作家だけではなく、現実にゲイとして生きる男性映画監督も同様なのだ。

溝口彰子『BL進化論 ボーイズ・ラブが社会を動かす』

ゲイの「現実よりも、より望ましい姿」とは何なのか?「進化」とは何なのか?

BL作家は「『ゲイ』キャラを現実よりもより望ましい姿に進化させ」ているのか?

「誠実な想像力」とは何なのか?

「裕福な白人男性と14歳で恋人としてイギリスに連れて行かれた貧しい日本の少年」の物語が、ゲイの「現実よりも望ましい姿」なのか。

溝口さんは、男性が、あるいはレズビアン当事者ではない人が、現実よりも望ましい女性やレズビアンの姿を語ったらどう思うのだろう。

この一文の中に、幾つもの疑問を感じる。

この文章が、出版されるまでに、周りの人や編集者で、そういった疑問を呈した人はいないのか?

私は、当事者以外の人がマイノリティの表象を作り出すことはできない/すべきでない、とは思わない。そこに起こりうる問題を理解し、批判を聞く気持ちがあれば。

また、実際にBLを描いている人で、「『ゲイ』キャラを現実よりもより望ましい姿に進化させ」ていると思っている人はほとんどいないと思う。

溝口さんのこの文は、BL作家に対しても迷惑なものだと思う。

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