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平行線《前編》【短編小説】

「メガジョッキハイボールお二つでェす! お待たせしましたァ!」
 頭にタオルを巻き、顎に無精ひげを生やした店員が野太い声でジョッキを運んできた。
 カズオは手元のグラスの底に残っているビールを飲み干すと、新たに運ばれてきたジョッキと交換する。カウンターテーブルで隣に座っているタカシも同様に、飲み終わって空になっていたグラスと新たなジョッキを入れ替えた。
 二人で同時に特大のジョッキを勇ましく口に運んでハイボールを喉へ流しこみ、傾けたジョッキをテーブルに戻すとカラリと氷が涼しげな音を立てた。
 店内は雑多な喧騒で賑わっている。仕事終わりのサラリーマンや飲み盛りの大学生たちで席は一杯で、声は乱雑に飛び交い、若い店員がさらに大きな声を出して酒や料理を運び回っている。夜になっても気温の下がらないジメッとした外気に比べ、冷房は効いているのだろうが人の熱量に押されて涼しいとは感じない。
 カズオはさらにもう一口ハイボールを喉に流してから、思いこんだ様子で口を開いた。
「なあ」
「あん?」
 タカシは無防備な感じで応答した。
「オマエんとこ、最近どうよ?」
「『どうよ?』って、なにが?」
「アレだよ、夜の営みってヤツ」
「ああ。まぁ、普通にあるよ」
「あ、そう。普通にある? ふーん……そらいいですなァ」
「なんだよ、オマエんとこはないのか?」
「さあ、どっちでしょう?」
「なんだよそれ、気持ち悪いな。ないんだろ、どうせ」
「正解、おめでとう」
「うるさいよ。なんなんだよ一体」
「いやァ、どうしたらいいのかと思ってよ」
「そんなもん普通に誘ったらいいだろ」
「普通に誘ってもダメだから悩んでるんじゃないか」
「どれくらいないんだ?」
「うーん、もう二、三年くらい」
「そいつは結構だな」
「だろ?」
「なんでそうなったの?」
「『なんで』? そんなの簡単だよ。こっちから誘うだろ? そしたら向こうは断る。それで日を置いてまた誘うだろ? また断る。そうやってだんだん間隔が空いてったら、あっという間よ」
 カズオはまるでハリウッド俳優のように大きな身振りで愚痴をこぼした。
「なんで断られるんだよ?」
「そんなの知るかよ。誘えば決まって『今日は疲れてる』『今日は気分がのらない』『今日は面倒くさい』って。『面倒くさい』ってひどい思わないか?」 
「ああ。それはオマエがヘタなんだな」
「うるさいよ。そういうことを言うんじゃないよ、傷つくから」
「でもそういうのもあるぜ、結構」
「そんなの……どうしろっていうんだよ? これから腕を磨けってか? 他の女性に『ご協力お願いします』って。別の問題になるよ」
「交渉してみればいいじゃない」
「オマエ、バカだろ。そんなことを許すカミさんがどこにいるんだよ。なあ、オマエはどうやってるの? どうしたら向こうはその気になる?」
「『どうしたら』って別に特別なことしてないよ。普通に誘うだけで」
「ホントか? なんか薬使ったりとかしてないのか?」
「するかよ! そんなことしたら捕まるだろうが。ただ普段からスキンシップとかはしてるけどな」
「スキンシップかァ。久しくないなァ、それも」
 カズオは遠い目をして記憶を辿った。
 二人目の子供が生まれてから、妻のアキは緩やかにスキンシップを拒んで行ったような気がする。そう、決して分かりやすく拒んでいるのではない。徐々に接地面を小さくしていくというか、抱き合うにしても向こうが手を回さなくなったり、隣同士で座っても肩や肘が触れなくなったりといった具合である。
 タカシはあくまでアドバイスするような感じで続けた。
「あるとないじゃ結構ちがうと思うぜ。その辺から改善してったらいいんじゃない?」
「でもよォ、いきなりスキンシップ取りに行って『なに急に? 気持ち悪い』ってなったりしないかね?」
「気持ち悪いって思われたらそれはもうアウトだろ。なにやってもダメだよ、そんなの」
「おい、おっかないこと言うなよ。それじゃなすすべなしか? このまま過ごしていく他ないのか?」
「そこは上手いことタイミング見計らえよ。あるだろ? 今なら大丈夫そうだなって瞬間だったり雰囲気が」
「うーん、そんな隙はないように見える」
「そんなわけないだろ。それがないってことは完全に冷えきってるとしか言いようがないよ」
「いや、そんなことはない。ただ、あらゆるシミュレーションをしても自分の間合いを取れる気がしない」
 言いわけに聞こえようが、仲が悪いわけではないことは確かである。それだけは声を大にして言いたいとカズオは思った。
「今まで散々断られてすっかり怖気づいてるな。よし、じゃ、こういうのはどうだ? オマエんとこ、カミさんも酒飲むのか?」
「おぅ、飲むよ。子供が寝た後に二人で晩酌なんてのはたまにやってんだ」
「おぉ、そうか。それなら都合がいい。そしたらな、まずなんでもいいから些細なことを褒めるんだ。ホントに些細なことでいい。あんまり改まると却って警戒心を与えるからな。さりげなくサラリと言うんだ」
「うーん、急に褒めるったってどこ褒めたらいいんだかなぁ」
「そこはいろいろあるだろ? 晩飯のことだったら『今日の味付けは良かったな。美味かった』とか髪型が変わったりしたら『いいよ。似合うよ』とか。そういう時に髪をちょっと触ったりすればそれでスキンシップになるじゃないか」
「おぉ、なるほどな。そういうタイミングでいけばいいのか」
「ただ気をつけなきゃいけないのは、お世辞は言うな。本当に思ったことを伝えろ。向こうは『そんなお世辞なんか言って』と言うかもしれないけど、本当にそう思ったんだってことが伝われば向こうだって嬉しくなるから。それができれば少しはハードルが下がるだろうよ」
「確かにな。本気で褒められれば嬉しくならないヤツなんかいないもんな」
「うん。酒を飲んでほろ酔い加減のところに旦那から褒められたことで良い心持ちになる。そこで今度はオマエがこうやってジーッとカミさんの目を見つめるんだ」
「目ェ見つめるの? なんかこっ恥ずかしいなぁ」
「そうだろう? ただオマエがこっ恥ずかしくなったらダメだ。オマエがジーッと見つめて向こうを気恥ずかしくさせるんだよ。初めは向こうも怪訝けげんな感じで『なに?』って聞いてくるだろう。そしたら『しばらくちゃんと見てなかったからもったいないなぁと思って』って言うんだ。それを言われたら向こうはオマエの目を見てられなくなってたまらずフッと視線を落とすから」
 タカシの口調はなんだか熱を帯びてきている。本気で言っているのか、冗談で言っているのか分からない。
「おい、ホントかよォ。それオレがやるの? 聞いててなんだかむずがゆくなってくんなぁ」
「そんな熟年夫婦じゃないんだから、これぐらいならまだ通用するって。若い頃を思い出してみろ。これよりももっとこっ恥ずかしいことを平気でやってたろ? この程度の甘さもなくやろうなんてのは、それは虫がいいってもんだ。そりゃカミさんだって断るよ」
「そうだな。確かにそうだ。しかし、自分が酔っちゃわないことには気が持ちそうにないな」
「オゥ。それはダメだ。酔った勢いってのが一番良くない。むしろオマエはほぼシラフの状態で言わないと。向こうに『酔った勢いで言ってるな』なんて思われたら終わりだよ」
 声音を低く落として、冷静に言い聞かせるようにタカシは言った。どうやら結構本気でアドバイスをしてくれているようだ。
「分かったよ。それで、その後は?」
「向こうが視線を落とすだろう? そしたらカミさんの手をそっと取るんだよ。握ったりさすったりして向こうの反応を伺うんだ。それで恥ずかしがって離れようとしたりすれば『たまにはいいじゃないか』なんてくだけた感じで距離を詰めればいいし、もし顔を上げてまた見つめるような状況になれば優しく抱きしめて、後はもう流れのままよ」
「そうか、なるほどなァ。いかん、いざやるとなると緊張してしまいそうだ」
「そうだろう。二、三年越しの甘い時間だ。リハーサルをしておいた方がいいよ。やってみな?」
 カズオは思わずタカシの顔を見た。至って真面目な視線を送っている。
「なに、今?」
「当たり前だろ。ぶっつけ本番でできると思ってんのか?」
「いや……まぁ、ちょっとは練習しようかとは思ってたけど……」
「一人で練習なんかしないでオレが相手になってやる。ほら、やってみな」
 急にやれと言われても心の準備が整っていない。というより、たった今タカシがアドバイスしたシナリオを誰かの前で練習するほど恥ずかしいものはないだろう。
 ただ、タカシの目には「やらねえなんて言わせない」と言わんばかりの圧が宿っている。
 カズオはしぶしぶタカシに教わったセリフを口にした。
「今日のからあげ、すごい美味かった。最高だよ。料理すごい上手くなってるな」
「なんだよそれ。"そういえば"的な雰囲気を出せよ。さりげなくだって言ってるだろ」
 すかさずタカシがダメ出しをした。その雰囲気は舞台を指導する演出家である。
「お、おゥ。そういえば今日のからあげ、アレ味付け良かったな。美味かったわ」
 するとタカシは急に声音を高くして、女性に扮した様子で妻役になって応えた。
「あら、ホントに? じゃ、今度から今日の作り方にしようかしら」
 カズオはタカシの変わりように面くらって言葉を継げなくなった。そんな感じでくるのか。意表をつくタカシの演技に心が乱される。
「おゥ、アレがいいわ。うん、すごい美味かったよ、ホント。……髪型変えた?」
「うん、少し切ったの。よく気付いたね?」
「おゥ。ちょっと雰囲気変わったなァと思って。いいよ、いい感じ」
「ホント? よかった」
 なんだかやや気持ちが悪いが、ちょっとずつきょうに乗ってきてはいる。その勢いのままにカズオはタカシの目をジッと見つめた。
「ん? なに?」
「いや、しばらくちゃんと見てなかったらもったいないなァと思って」
「え? イヤだ。そんなに見ないで」
「いいじゃん。もうちょっと見せてよ」
「やめてよ、恥ずかしい。ちょっとォ、そんなに見ないでよォ」
 タカシはノリに乗って妻役を演じている。アキが果たしてこんな風にリアクションをするのかはなはだ疑問であるが、相手が自分のためにこうも乗ってくれるのであれば、雑な練習で無下むげにするわけにはいかない。
 カズオはさらにタカシの手を取って、やさしく包みこんだ。
「ちょっと、なに? なにしてんの? ねえ? ちょっとォ、暑くなるでしょ」
「そんな離れることないだろ。たまにはいいじゃない、こういう雰囲気になったって」
 カズオがタカシの肩に手を回したところで、タカシは急に演出家に切り替わった。
「オッケー! いいよ、やればできんじゃない」
「いけてた? ホントに?」
「これだけできれば充分でしょ。いけるよ、いけるわ」
 本当だろうか。タカシの妻役はいささか胡散うさん臭いが、親身になってアドバイスをくれた人間に対して突っ込むのも気が引ける。ただ、タカシが確信を持って励ましてくれればそんな気にならなくもない。酒が回って気分が高揚し、なんだか上手くできるような気がしてきた。
「おおし、自信がついてきたかもしれない。腕が鳴るなァ」
 カズオは勇ましく大きなジョッキを持ち上げ、勢いよくハイボールを喉に流しこんだ。

〈続〉

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