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平行線《後編》【短編小説】

 夕食の終わったダイニングテーブルで、カズオは缶ビールを片手にテレビを眺めていた。目に映るテレビの内容などもはや頭に入ってはいない。
 カズオはやや緊張していた。
 気分を紛らわすのに手に収まっている缶ビールを勢いよくあおりたいのだが、酔ってはいけないとのタカシの忠告で、せめぎ合う心をちびちびと口にすることでなんとか抑えている。
 昨日タカシと飲んでからの今日である。こういうことは早い方が良い。思惑通りに事を運べるか不安ではあるが、それで延ばし延ばしにしては、その機は訪れないであろう。
 妻のアキはキッチンにいて姿が見えず、食器を洗う音だけがリビングに響いている。後片付けにやたらと時間がかかっているような気がして、カズオはじれったくなり、キッチンに向かって声を上げた。
「オゥ。今日は飲まないのか?」
「飲むよ。ちょっと待って」
 アキは作業の手を止めず声だけが飛んでくる。
「そんな洗い物なんか明日でもいいだろ。早くこっち来なよ」
「イヤよ、残しときたくないの。ちょっと待ってって」
 そう言われてしまえばそれ以上は何も言えず、カズオはブツブツとひとつ。
「なんだよ、ったく。なかなか来ないで。一缶だけで粘ってるせいですっかりぬるくなっちまった」
 実際はそれほど時間など経ってはいないのだが、ずっと缶を握っているせいですっかりぬるくなってしまっているのである。
 何かを企てて実行しようとすると、どうもソワソワして落ち着かない。妻を相手にそれと気づかせないようにとこへ導くとなればなおさらだ。
 カズオはまたビールを豪快に呷りたい気持ちに駆られたが、「酔った勢いで」などと思われたら元も子もないことをもう一度思い直し、チビッと一口だけ呑んでこらえた。
「はい、終わりましたと」
 アキが缶ビールを二本手にしてキッチンから出てきた。
「なんだよ、今日はやけに遅かったじゃないか」
「別に遅くないでしょ。いつも通りよ」
「オマエを待ってたから、すっかりぬるくなっちまったよ」
「あら、なんで待ってたのよ。コレ空ければ」
 と、アキは持ってきた内の一本をカズオの前に差し置くと、向かい側の椅子に座った。
「いや、いいんだいいんだ。今日はそんなに飲めないから」
「なに? どこか体調でも悪いの?」
「そういうんじゃないんだ、別に。気にするな。とりあえず開けなよ」
「うん」
 アキが缶ビールのタブを開けると、二人は缶をコンと打ち合わせて乾杯をした。
「はい、じゃお疲れ」
「お疲れ様」
 アキは缶ビールを傾けてグビグビと喉に流しこみ、染み入る心地よさを包み隠すことなく声に漏らした。カズオは舐めるように缶に口をつけながら、その様子を窺っている。
「子供たちはもう寝たのか?」
「知らないよ。洗い物してたんだから。そろそろ寝るんじゃないの」
「あ、そうかい。しかしなんだな、暑いな今夜も」
「暑い? 冷房もっと下げる?」
「あー、そうだな。もう少し下げようか」
「珍しいね、アナタ冷房嫌いなのに」
「緊張で頭に血が上ってクラクラ来るといけないからな」
「なに? アナタ本当に大丈夫?」
「なに、気にするな。別になんてことはないんだ。いつも通りやろう、いつも通り」
「変な人ね」
 二人の間に妙な空気が漂った。
 アキがリモコンをエアコンに向けて、ピッピッと二度温度を下げる。
 カズオは〝そういえば〟感を出そうと、また一口缶を傾けて、さりげない素振りを意識して口を開いた。
「……そういえば、今日のからあげ、アレ、味付け良かったな。美味かったよ」
「あら、そう? あれデパ地下で買った総菜だよ」
「なに? オマエが作ったヤツじゃないの?」
 予想外の返答にカズオは思わず声が大きくなった。
「今日忙しくて作る余裕がなかったから買ってきちゃったのよ。今度から、からあげソコのにする?」
「いや、まあ、毎回じゃなくてもいいよ。今日みたいに忙しい時とかだけで。なんだ、買ってきたヤツか」
 カズオはブツブツと呟きながら、動揺を悟られないように押し隠した。
 ――いきなり出鼻を挫かれてしまった。ただ、こんなことで狼狽うろたえていたら先が思いやられる。大したことはない。気を取り直して次に進もう。
 カズオはそう自分に言い聞かせ、今度はアキの髪に目を移し、さも今気づいたように問いかけた。
「おっ? 髪型変えた?」
「……いつの話?」
「え? いや――あの、なんか短くなったよな?」
「もう二週間くらい経ってるよ」
「そ、そうだよな。大丈夫、気付いてたんだよ。いいじゃん、似合うじゃんか」
「今さら?」
「……ってことを、切った時から心の中でずっと思ってたってことを言いたかったんだ。うん、そういう話」
 アキがまっすぐに視線を向けて沈黙しているのに耐えられず、カズオは思わずテレビに目を移し、また缶ビールを口にした。
 完全に失敗である。このまま続けるべきかどうかカズオは一瞬の内に思い悩んだ。この失敗がどの程度のものなのか。致命的なものなのか、まだこのあと挽回できるものなのか。しかしどちらにせよ、もはや後には引けないような気がする。ここはもう開き直ってこのまま進めるしかないとカズオは腹をくくった。
 この次は「目を見つめる」である。
 アキは今、カズオと同じようにしてテレビに目を向けている。カズオはアキを振り向かせようと、露骨に視線を送った。
「なに?」
「いや、しばらくちゃんと見てなかったからもったいないなぁと思って」
「なんか様子が変ね。なにしようとしてるの?」
「いや、別に、なにをしようというわけじゃなくて、なんというか、その……この後久しぶりに一杯どうかなって思って」
「『一杯どうかな』って今飲んでるじゃない」
「そうじゃなくて、酒飲んで『この後どう?』って言ったら……なぁ、分かるだろ?」
「……あぁ。ラーメン?」
「ちがうよっ! そうじゃなくて、今酒を飲んでる、この後ベッドに入って眠る、その前だ。やることは一つしかないだろ」
「あぁ、そういうこと? えー、今日? 今日は疲れてるもん」
「出たよ『今日は疲れてる』。オマエはいつもそうじゃないか」
「いつもじゃないわよ。この前は『気分が乗らなかった』だしその前は『面倒くさい』だよ?」
「だからそのことを言ってるんだよ。ずーっとそのフレーズを使い回してるだろ」
「じゃ、今度は新しいの考えとく」
「断り方を増やせって言ってるんじゃないよ!」
 カズオの目的が分かり、アキは呆れるように微笑を浮かべた。
「大体アナタもヘタクソね。なに今の? アレでそういう流れに持ってこうとしたの?」
「ちがうんだよ、アレは。オレが望んでたシナリオじゃなかったんだ。もっといい雰囲気になる予定だった」
「なんだか一生懸命考えてきたみたいだけどホント頭でっかちね。できもしないのに小手先であれこれしようとして」
「そんなこと言ったって、普通に誘ってもオマエいつも断るじゃないかよ」
「そうだけど……かと言って、一生懸命雰囲気作ろうとしてるのが丸分かりでもねェ」
「でもこの後なんだよ。この後にオマエも思わずクラッと来ちゃうような展開が待ってるから」
「『待ってるから』って、なに? まだやるの?」
「当たり前だろ。せっかく考えてきたんだから最後までやらせろよ」
「アンタねえ、今この状態から始めてわたしがその気になると思うの?」
「やってみないと分かんないだろ。とにかくあーだこーだ言う前にやらせろって言うの。ほら、さっきみたいにテレビ見てろ。そしたらオレがオマエを見つめるから」
 種明かしをしたマジックを見て驚けというようなものである。カズオの頭の中は、描いたシナリオのどの部分でもいいから成功に導くことで一杯だった。
 一方アキは全く気乗りしない感じで、しぶしぶとテレビに目を移す。それを見てカズオは、さっきと同じようにしてアキの目に視線を送り始めた。しかし、ジーッと見つめているのに、アキは一向に振り向こうとしない。
「こっち見ろよ!」
「なに?」
「オレがオマエを見つめてるんだろ。気付いて『なに?』って振り向くんだよ」
「そういうこと?」
「そういうことだよ。オマエさっき普通にやってたろ。アレをするの。はい、もう一回。そっち向いて」
 カズオは再びアキをテレビに向けさせて、視線を送った。
「なに?」
「いや、しばらくちゃんと見てなかったからもったいないなぁと思って」
「ふーん」
 二人は固まったまま、沈黙が流れる。
「なんでずっとこっち見てんだよ? 気恥ずかしくなったら視線をこうやってフッと落とすんだよ」
「気恥ずかしくなるわけないでしょ。なに言ってんの。ずーっと見てきた顔なんだし」
「オマエね、そんな身も蓋もないこと言うんじゃないよ。そりゃ何年も見慣れてきた顔だよ。そうじゃなくて昔を思い出せよ。気恥ずかしさとか照れくささとかあったろ? そんな死んだ魚みてえな目ェしやがって。少しはオマエもときめく心構えを持てよ。こっちがグッと見つめてるんだからオマエも乗っかれって言うの」
「はいはい、分かりました」
「はい、じゃもう一回。オマエがテレビを見てる。オレが見つめる。はい、気付く」
 思い通りに事を運べず、思わずカズオは演出家のように指示を出し始めた。
「なに?」
「『いや、しばらくちゃんと見てなかったからもったいないなぁと思って』。そしたら……気恥ずかしくなって……そう、そうやってフッと視線を落とす。そしたらオレは……あれ? オマエこんなところにシミがあるぞ」
「やめてよ、もう。なんでそういうこと言うの? こっちがその気になりゃ、そうやってぶち壊しにして。バカみたいじゃない。もうヤメよ、ヤメ」
「ちょっと待て待て待て。いやぁ悪かった、悪かったから。いきなり目に飛びこんできたもんだからつい出ちゃったんだよ」
「〝つい〟じゃないわよ、デリカシーがない。なんでそういう時だけシナリオにないことに対応できるのよ」
「こっちだってこういうの久しぶりだから勘が鈍ってんだよ。な? その辺は夫婦なんだしお互い様なんだから多めに見ろよ。じゃもう一回いくぞ」
「もう、次が最後だからね」
「最後ってオマエ、そりゃねーだろ」
「イヤよ、何回も何回も。いくら鈍ってたってこういうのはスマートにいくものよ。次が最後ね。はい」
「ホントにもう、しょうがねぇなぁ。いくぞ? オマエがテレビを見てる。オレが見つめる。はい、気付く」
「なに?」
「『いや、しばらくちゃんと見てなかったからもったいないなぁと思って』。そしたら……気恥ずかしくなって……そう、そうやってフッと視線を落とす。そしたらオレは……」
「ねぇ、それ言わずにできないの?」
「オマエは中断するなよ! なんで人がこうやってグワーッと入ってるときに止めるんだよ」
「そんなのアンタだけ自分の世界に入ったって、こっちは気が散ってしょうがないんだけど」
「分かったよ、うるせえなァ。おい、今ので最後は無しだぞ。そっちから止めたんだからな」
「分かってるよ。これが最後ね。はい」
 カズオは改めてアキを見つめた。
 だが、アキは視線を落としている。
「最初っから落とすなよ! 見つめろよ!」
「なによ、もう。面倒くさい。別にいちいち最初からやらなくていいでしょ」
「ダメなんだよ。目を落とすタイミングとかで次に移る加減が決まるんだから。適当にやんなよ」
「もう、これがホントに最後だからね」
 カズオはさらに改めてアキを見つめた。
「なに?」
「いや、しばらくちゃんと見てなかったからもったいないなぁと思って」
 アキは恥ずかしげにフッと視線を落とした。
 カズオはそっとアキの手を取り、優しく撫でて反応をうかがう。しかし、アキは微動だにしない。もう一度さするようにして様子を見るもアキに動こうとする気配はなかった。カズオが一生懸命になってさすっているとアキの方が口を開いた。
「ねぇ、わたし介護されてんの?」
「ちがうだろ! こっちが手を取ってるんだからなんか反応しろよ。こっちが一つアクションを起こしたらそっちがリアクションする。次のアクションに移ったらそこでリアクションする。コミュニケーションを取れよ!」
「そんなこと言ったってアンタのシナリオが分からないんだから、動けるわけないでしょ
「いいんだよ、オレのシナリオなんてどうでも。オマエが感じたように動けばそれが正解なの」
「じゃ、なにも感じなかった。感じなかったから動かなかった。アナタがやったことに対しての正解はコレ」
「オマエ……それはあんまりじゃないかい? それじゃ結局オレがなにしたってムダだってことじゃないか」
「そんなことはないわよ。アナタさえ上手く雰囲気作ってくれりゃ、こっちだってその気になるんだから」
「そんなこと言うけどな、オマエの心構えにも問題があると思うぞ。あれこれやったって意地になってテコでも動かねぇじゃねぇか」
「意地になんかなってないわよ。アナタの腕の問題よ」
「腕の問題って、じゃどっかで腕を磨いてきていいのかよ? え? どこぞの女と『スイマセン、腕磨くのにつき合ってください』って、やっていいのかよ?」
「やっていいわけないでしょ! バカじゃないの!」
「じゃオレはどうすりゃいいんだよ?」
「磨かずにどうかそのままでお願いします」

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