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物事をどの様に見るのか…自分をどの様に見てもらうのか?

肩書きは、自分の今を説明する道具である。
無ければ無いで別に構わないのだが…(これはこれで…来し方を一々説明しなくてはならない時もある。)
あればあったで、ある程度の説明が省ける反面…それ以外の要素が見落とされがちにもなる。

肩書きに限った話ではないが…
今の自分に必要なものを引っ張り出す作業は、体得出来得る所へ到達する為にもルーティーン化しておいた方が色々とメリットがある。
様々な修行の中で、意味を言わずに先ずは形から入るのには習慣の体得というものが如何に人々が日々繰り返す営みに影響を及ぼしているのかを体感してもらう絶好の機会ではなかろうか。

物事の繋がりを絆とみるのか…柵とみるのか…
そこにある本質は変わらぬはずなのに…
受け手が感じ取る時にどうして別のものに見えてしまうのか。
きっと、それこそが煩悩なのだと思う。
今いる世界をどのような眼鏡(見識)で見るかで、
不思議と立ち回りが変わってしまう。
それが世界の面白みでもあるのだが…
その世界の面白み・可笑しみが悲しみを引き寄せてしまう事も多々ある。
その眼鏡で見ようとしているものにちゃんと焦点が合っているのか…
目を凝らしてみた方が良い気がする。
それでも、見たいものが見えないのなら…少なくとも…その眼鏡(見識)は君には合っていないものなのだと思う。
まあ、自分に合った眼鏡なんて…それこそ世の中の様々な出会いを通して見つけていくしかないのだけどね。

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