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#4 受動的な心地よさよりも、能動性によるオリジナリティを

つまり「情報」が、その真偽を問題とされるという本来の意義を失って、ただ自分に心地よさを与えてくれるものとして、いわばバックグランドミュージックのようなものとして扱われるようになっている。その結果、心地よいものであれば、それが内容的にフェイクニュースであろうとかまわない、とされることになりつつあるのである。これこそがまさに〈ポスト真実〉的な生き方であることになる。

八巻和彦「〈ポスト真実〉の時代としての現代」[2018: p.15]

 わたしたちはあまりにも多くの情報を得ることができるようになりました。こんな環境になるとは、少し前までは考えられなかったことです。そして若い世代は、その大量の情報をいきなり与えられたわけです。長い年月をかけて蓄積されてきた情報の濁流をすべて飲み込んで、文脈に沿って整理することはかなり難しいのではないでしょうか。となれば、彼らは「フェイク/ファクト」という視点での判断ができなくなっていると考えられます。その結果、自分にとって「心地よいかどうか」という尺度で測るしかなくなっているのです。フェイクニュースによる害悪というのは、これからもっと大きな問題になっていくことでしょう。そのときは、政府による法整備も必要になってくるはずです。

 今はまだ感情論で語ることのできる時期だと思います。そこの「心地よさ」に甘んじていると、必ず手痛いしっぺ返しを受けることになります。若いころはそれでも誰もなにもいわないでしょう。ただその後、「フェイク/ファクト」の判別に関する問題意識があるかどうかということが他者からの評価の基準となってくると思います。それは「ネットリテラシー」の問題でもあります。最近、さまざまなところで注目されるようになってきているのが「リテラシー」の有無です。よって、「ネットリテラシー」が低い人物というのは、「人材」として評価されなくなる可能性があります。クリエイティビティで生きていこうと思っているのならば、他者から「人材」として評価されるかどうかは、それほど重要ではないかもしれませんが、そんな強気な人生を送ることができるのはひと握りの人間だけです。そういったクリエイティビティを発揮することのできる人たちと、彼らから頼りにされるようなホスピタリティの高い人たちは、縄文時代のような〈ボスのいない共同体〉を作って生きていくことができるでしょう。そのほかの人々は「人材」として評価をされることになり、「人材」が必要な場合のみ共同体の構成員になることができます。

 また、フェイクをそのまま再生産して垂れ流す人の作品は評価されないでしょう。その「フェイク」であることを逆張りでアート作品に仕上げることができる能力があるのならば、評価されることもあると思いますが、そうでなければ見向きもされないと思います。これからどんどんフェイクニュースは増えていくでしょう。そして、その結果、ファクトの価値が高まっていくでしょう。現在、わたしたちが当然のように受け取れると思っているファクトは、今後手に入れることが難しいものとなり、どれだけ「フェイク/ファクト」の判別をすることができるかが、その人の評価の高低を表すことになるかもしれません。

 ここに書いたようなことは、まだ未来の話です。ただ、遅かれ早かれこのような未来は到来することになるでしょう。そのときに、受動的な「心地よさ」をものさしとする生きかたは通用しなくなります。つまり、これからの世の中というのは、〈能動性〉を求められるのです。「誰も教えてくれなかった」ではなく、「自分の能力を最大限に使って調べる」であり、「フェイクであることに気づかなかった」ではなく、「もしかしたらフェイクであるかもしれないと疑い、調べる」なのです。〈能動性〉によって価値あるものを獲得し、他者からも認められるような自分となったとき、それが本当のオリジナリティというものなのだと思います。


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