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家族のこと 2

母方のことはそこまで詳しくない。
ただ、母の母(祖母)はものすごいキツい性格の人間だった。その人に育てられた母は反面教師半分、やはり引き継いだもの半分というところかなと感じる。

母方の祖母はかなり裕福な家に生まれ育ったようだが、やはり戦時中ということもあって渋々普通の家の祖父の元に嫁ぐことになり、金銭的にも決して裕福とは言えなかったため祖母自身も教師として働いていたそうだ。ただ子供たちへの教育熱は凄まじいものだったそうだ。母は血の滲むような努力の結果、やりたくもないピアノの道に進まされ音大に入った。
母は75歳になった今でも祖母からスパルタ教育をされていた頃の夢を見ると言っていた。


父は本来なら実父母の愛情を受けて育つ一番大事な5歳の時に、伯父夫婦の元に養子として迎えられたのだが、養子先の母(私からすると祖父の奥さん)は病弱で寝込んでいることが多く、あまり手をかけて育ててもらえなかったようで実際のところはその親(私からすると曽祖母)に育てられた。
養子に出した自分の我が子が気になることもあるのか、実母は毎日のように曽祖母のいる実家に顔を出していたようだ。それは私が産まれてからもずっとそうだった。
毎朝、毎夕、父の実母は当たり前のように兄夫婦と自分の母が住む実家に顔を出してしばらく話をして家に帰っていっていた。
私は幼い頃、その関係性を全く分かっていなかったのでなぜ私の家にはおじいさんは1人なのに
おばあさんが3人(曽祖母・父の産みの母・父の育ての母)もいるんだろうとずっと思って不思議で仕方なかった。そしてその3人は私をとにかく溺愛した。

父と母は幼稚園からの幼馴染だったので、気心も知れていたようだが、母にはずっと結婚を考えていた人がいたらしい。ただ親同士が婚姻を望んだようで、結局好きでもない父と結婚する羽目になったと何度も聞かされた。なので、父と母は仲が良いわけでもなく、でも幼馴染なので悪いわけでもなくという感じだった。

元々ややこしい環境であまり愛情を受けずに育った父は本当に貝のような人間で、幼い頃から私は父の膝の上に座ったことがない。温かみが感じられなかった。でも今になって思うと、愛情を受け取れなかった父はどのように自分の子供に愛情を表現したら良いのか分からなかったんだろうなと、父を不憫に思う。愛情表現が苦手なだけで母から言わせると父は私を本当に宝物のように大事にしていたらしかった。それは私の幼い頃の膨大な…本当に膨大な量の写真とそれぞれの写真への日記のように詳細なメモを見ると、父はどれだけ私を愛していたかが分かる。

私はこのような環境で、3人のおばあさんと祖父(父の育ての親であり、父の実母の兄)両親に愛されて育った。
ただ、父の実の父親がとてもやっかいな人物だった。めったに私の家に来ることはなかった。お正月だけ、私たち家族は父の実の父親のところに挨拶に行く程度だった。
その祖父(父の実父)は普段はおとなしいのだが、ものすごい酒乱だった。
年に数回、お酒に溺れる時期が必ずきた。そうすると、私の家に来て、暴れまくる日が続いた。

私が幼い頃は、両親たちは私にその酒乱の祖父の姿を見せてはいけないと、暴れる時期がきたら、私は母の実家に移された。
私を移すタイミングを逃した時は、私を家に閉じ込めて、両親が庭で盾になり祖父に殴られても蹴られても私を守った。

ある程度の年齢(小学校中学年くらい)になると、私は祖父の実態を知ることになった。
祖父は酒乱の時期になると、朝昼晩関係なく家にどなりこみに来た。最初は罵詈雑言。それから手が出る。口答えしようものなら、何倍にもなって返ってきた。だからいくら何を言われても父は祖父に何も言い返さなかった。
父は私の母や私に、ただひたすら我慢して耐えて祖父の気が晴れて家に戻るのを待つようにしろと言った。

なぜいつも私の家に来るのか、祖父には子供が他にもいるのに、、いわゆる父の兄弟がいるのに…なぜいつも私の家にばかり暴れに来るのかと悔しかった。曽祖母が自分の娘が嫁ぐにあたって遠いところが嫌だからと家が割と近かったことが仇になったのかなと思う。
そして私は、暴れてる自分の父親に何も言い返さない父が憎らしくて仕方なかった。
叩かれても耐えろと言われるのが、我慢ならなかった。男らしくない、なぜ言いなりになるのか、なぜ母や私を守ってくれないのか、本当に憎くて弱々しく感じで仕方なかった。

これを書いている今でも、その時の記憶が蘇ってきて恐怖と怒りで震えてくる。

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