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プロファイリング習近平

 今日のロシアのウクライナ侵略、イスラエル/イランの報復合戦等に典型的に窺われるように、国家指導者の内面心理、特に、権威主義体制国家の場合、そのトップがなにを考えているか、指導者の内なる思考/志向のありようは国際関係の今後を考える際、極めて重要な要素となっている。

 こうした関心から、党中央委員会総書記にして国家主席、党/国家中央軍事委員会主席という中国の党・政・軍の権力中心の座を占める字義通りの最高指導者、習近平が今日の中国をどのように捉え、そこから何を考え、何を進めようとしているのか…習近平のプロファイリング、つまり、習近平個人の内面心理への肉迫を試みることにしたい。 


民意モニター:習近平の耳朵

 先ずは、現代中国社会の課題、つまり民意・民心の赴くところを習近平はどのように把握、理解しているのか。中国のメディアについては「党の喉舌」としばしば形容されるが、この顰みに倣うならば、習近平はどのように情報を得ているのか、「習近平の耳朵」にはどのようなものがあるのか、先ずはこれを考えることにしよう。

 「ザ・ブック/CIA大統領特別情報官」という米国NBC制作のTVドラマ(原題:State of Affairs)がある。キャサリン・ヘイグル演ずるCIAの情報官、チャーリー・タッカーが毎朝大統領へのデイリー・ブリーフィング(PDB)を行い、米国の危機に対処する大統領の決断を助けるというサスペンス・ドラマだが、おそらく中国のトップ、習近平に対しても同様の情報フリーフィングが毎日行われているものと推測される。革命時期以来の伝統的な党中央党調査部、国家安全部系統の中国現代国際関係研究院、「老二」(ラオアール)と称される人民解放軍総参謀部第二部等々の情報諜報機関は固より、中央党校、中国社会科学院、大学等の研究機関あるいはメディアの調査報道等からそれぞれの分野の情報が、秘書役の党中央弁公庁主任、国家主席弁公室主任の手許に集約され、取捨選択の後、最終的に習近平に届いているものと思われる。

 考えるまでもなく、森羅万象のあらゆる事態に対処しなければならない大きな責任があるトップにとって、それらすべてにつき、自らの目と耳で直接把握することなんぞは時間的、物理的に到底不可能事に属する。それぞれの専門組織からのコンパクトに要約された情報に頼らざるを得ない。

中央政治局集体学習

 ただ、こうした「習近平の耳朵」の詳細が伝えられることはなく、その全体像は必ずしも判然とはしない。とはいえ「習近平の耳朵」の一端を示すものとして、われわれの眼に直接触れることのできる公開情報の一つに「中央政治局集体学習」と呼ばれる中国政治のトップエリートの勉強会がある。 
 これは、その時々の重要課題につき、党中央政治局員ら最高権力者グループが中南海の懐仁堂の中型会議室に集い、その分野に関する選りすぐりの最高権威の専門家、研究者からレクチャーを受ける。円卓の中央に座した習近平が開幕を告げ、慎重に選ばれた講師が周到な事前準備を経た草稿に基づき、講義を行なった後、参加者と質疑応答を行い、習近平が総括スピーチでこれを締め括る。2012年の初回会合以来、このほぼ月例の学習会の開催は、テーマ、講師の選定から講義内容に至るまで党中央弁公庁がその仕切りにあたっており、特に講義原稿は開催2、3ヶ月前から中央弁公庁主任に提出し、そのチェックが繰り返されるともいう。この党中央政治局集体学習の開催状況は、「中国共産党新聞網(http://cpc.people.com.cn)」ほかで開催日時から講師名、主要参加者等が報じられている。

中国共産党新聞網(http://cpc.people.com.cn)

 その公開情報に基づき、開催状況、とりわけ講義テーマを分野別に整理してみると、政治分野では革命伝統、革命精神、監察、党組織、法律分野では民法、社会主義法治、憲法等のテーマがあり、科学技術分野の量子科学、バイオ、ブロックチェーン、AI、ビッグデータ、経済領域の経済システム論、金融、デジタル経済、知的財産権問題等といずれも最先端のテーマがレクチャーされている。習近平以下の中国指導部は、当代一流の専門家により、最新の知識が注入されるという贅沢な機会が確保されていることになる。

確証バイアスの罠

 にも関わらず、習近平が⺠意⺠⼼の所在を「学習」するプロセスにおいて懸念されるのは「確証バイアスの罠」と呼ばれる認識の歪みである。習近平⾃⾝がどこまで⾃覚的であるかは措くとしても、都合のよい情報のみを選択的に聴取し、それによって⾃⾝にとって「不都合な真実」が排除されかねないという可能性である。更に、外部的にも、都合のよい情報のみを選択ブリーフする側近の忖度アルゴリズムも発⽣しかねない。習近平の権⼒が強⼤であればあるほど、彼の掲げる政策⽅向に沿わぬ不都合な事態は⾃らの失態として責任追及され、習の不興を買い、果ては失職、免職の憂き⽬に遭うことを惧れる下僚は、果たして敢えて「精確な」状況報告を⾏うであろうか。例えば、近年の猛々しいまでの対⾹港「中国化」政策を⾒るにつけ、習近平の⽿に果たして⾹港情勢の変化、あるいは更に台湾住⺠のアイデンティティ意識の動向等どこまで精確なところが届いているのか 、情報取得に関するフィルターバブル、エコーチェンバー状態に陥っていることも危惧される。

権⼒者の重責と孤独

 更には、如何に最新、最高級、良質の情報が寄せられたところで、最終決定を下すのは、権⼒者、すなわち,重層的な意思決定サークルの頂点に⽴つものでしかあり得ない。規模の⼤いさのみならず、利害が錯綜する錯雑なシステム全体の将来を決するトップの判断は重く、その決断結果の影響は甚⼤にして⼤きな責任が⽣ずる。仮令「習近平の⽿朵」を通じどれほど潤沢な情報収集と精確な分析がなされたとしても、また周囲からどれほど良質のアドバイスが⽰されたとしても、その最終決断はひとりで⾏わねばならない。⼤きな存在をわが意の儘に操るという快感もさることながら、果たしてこの判断が間違いないものなのか、⾃⾝が真摯であればあるほどこの迷いから逃れることはむつかしい。

 他⽅、権⼒にすり寄る追従者の存在は権力者に⾃⼰満⾜こそもたらすものの、それが⾃らの地位を危うくものではとの疑⼼暗⻤も抑えきれない。“両⾯⼈”と称される⾯従腹背ではないか、「ブルータス、お前もか」

という周囲に潜む叛徒への不安である。更には、⾃らが権⼒掌握に⾄った⼿段についてもその有効性を知悉するがゆえに、⼒なり、権謀術数なりが⾃らの権⼒を奪い去る⼿段たり得ることに周囲への猜疑⼼も深まる。

 ただ、敢えて外部観察としての傍目八目の懸念を記すならば、こうした習近平の情報取得に上述の通りの「確証バイアスの罠」といった危ういものがありはしないかとも危惧される。「確証バイアスの罠」とは、聞きたいものだけを聞く、聞きたくないものには耳を傾けないという選択的聴取のことで、この結果、反証情報を排除し、支持情報のみが溢れるエコーチェンバー状況に陥ることとなり、習近平自身の価値観の「バブル」の中で孤立を深めるフィルターバブル情報環境がもたらされかねない。

 更に、習近平の権力が大きければ大きいほど、周囲の側近も習近平の歓心を買うべく、阿り、諂うことが有力な保身術となる。そうなれば、どのような情報をボスに上げるべきか、その際の側近の忖度アルゴリズムがこうしたエコーチェンバー情況を加速するであろうことも十分予想される。

グリーンブラット『暴君:シェイクスピアの政治学』

権力者の孤独 

 こうしたフィルターバブル情報環境にあって、習近平は孤立を深めることとなる。「最高権力者は最高権力者であるがゆえに常に孤独である」と喝破したのがシェイクスピア研究者のスティーブン・グリーンブラットだった。彼は、その著書『暴君:シェイクスピアの政治学』(河合祥一郎訳、岩波書店,2020)で次のように述べている。

「権力を得る過程で行使した手段は、その強みを知るがゆえに、自らの権力を奪う有力な手段であるとの認識をもつ。暴力で地位を奪ったものは暴力を恐れ、権謀術数で地位を奪ったものは権謀術数をおそれる。強みが自縄自縛となって、権力失墜の崖に自らを追い込んでいく」

グリーンブラット、スティーブン[河合祥一郎訳]『暴君:シェイクスピアの政治学』(2020)岩波書店
太宰治『徒党について』

 太宰の言葉にも同趣の響きがあるが、つまるところ、権力掌握に至った道とは、すなわち権力の座から滑り落ちる道であることを熟知するが故にその道を歩もうとする者への猜疑心を高めることになる。周囲の人間がその道を歩んでいるのではないかと疑心暗鬼に駆られ、側近の忖度にも疑いの眼を向ける。おそらくこうした猜疑心は習近平というトップ個人のみならず、戦争、軍事革命によって革命を成就させた党自身の裡にも組み込まれており、いわば党のDNAと言っても過言ではないかも知れない。

 「下衆の勘繰り」とも言われかねないこうした推測は、実は、中国のSNSブログにも同様の指摘が出現している。「方舟与中国」というアカウント名の《客観評価習近平》と題する書き込み記事は、習近平は今薄氷を踏むような心境にあると断じている。習近平は「両面人」(=面従腹背)を憎むと公言し、「絶対的忠誠」を繰り返し求め、「ニセ忠誠」は許さないと強調しているものの、周囲に頼らざるを得ない一方で、周囲の共謀や陰謀を常に警戒しているという。当然、この書き込みは即削除の憂き目に遭ったが、そのこと自体何かを意味している…

「方舟与中国」《客観評価習近平》

   “両面人”を疑い、「ブルータス、お前もか」情況を恐れる…極論すれば、習近平は「裸の王様」的な罠に陥っているのかも知れない。権威主義体制の孤独なトップ指導者という点では、当今のプーチン大統領の心情にも相通じるものを見出すことも許されよう。

習近平のトラウマ


 習近平自身の経歴に秘められたトラウマを見出すことも許されよう。先ずは、能力、学歴コンプレックスとでもいうべきもので、習近平の能力水準に関しては外部的な疑惑が寄せられている。毛沢東の秘書として長くこの指導者を身近に観察してきた李鋭は習近平につき、“没想到他文化程度那么低” (=これほど無教養とは思わなかった)と嘆いている。具体的には、李鋭は、習近平が“精湛”(Jīngzhàn)を“精甚”(jīngshén)と誤読、“赡养”(Shànyǎng)を“瞻仰”(zhānyǎng)と誤読したことを挙げ、その文化程度(=教養水準)を小学6年級にして半文盲と酷評している。海外華人間では“无德无能,毫无政績,却步步升迁”(徳もなければ、能力もなし、功績ゼロでも昇進を続ける)との辛口評も散見される。  

李鋭(1917年4月13日 - 2019年2月16日)

 学歴という点でも習近平のコンプレックスをみることもできる。習近平は1975年に「工農兵学員」(模範的な労働者・農民・兵士の推薦入学)制度により国家重点大学の清華大学化学工程学部に入学している。だが、この「工農兵学員」制度とは無試験での清華入学であり、文革による混乱した秩序回復過程の中、復活した全国普通高等学校招生入学考試で鳳陽県の状元(=最優秀成績者)となり、1978年3月に北京大学法律系に入学し、在学中も模範的学生として高い評価を受け、全校学生会責任者を務めた李克強と対比するならば、両者間の懸隔は絶望的なまでに大きい。

李克強

 1990年代後半共青団中央書記処第一書記となり、中国青年政治学院院長をも兼任する間、李克強は1988年9月から1994年12月に北京大学経済学院経済学専攻大学院に在職研究生として在籍し、北京大学光華管理学院の初代院長の厲以寧を指導教官として、6年の修学を通じ経済学修士、博士の学位を取得した。李克強の博士論文「わが国経済の三元構造」は厲以寧著『繁栄に向けた戦略選択』(経済日報出版社、1991)に収録されている。これに対し、習近平も福建省の党、政府、軍区での指導者となった1990年代末、1998年から2002年にかけて、清華大学の人文社会科学院マルクス主義理論・思想政治教育專業課程に在職研究生として在籍し、「農村市場化研究」と題する学位論文により法学博士の学位を得たことになっているが、海外の複数メディアは、論文の代筆疑惑を報じており、習近平の法学博士論文を見出すことは至難の技である。就任当初、経済学博士号を持つ理論家として経済財政分野の担当責任者になると目され、李克強の経済政策は「リコノミクス」として内外の脚光を浴びたのに対し、法学博士習近平に帰すべき法学関連分野の特筆すべき功績はない。  

 また、習近平の昇進プロセスをみても、彼自身の個人的才覚というよりも革命元老たる父習仲勲、革命英雄たる母齐心“系譜”(lineages)によるいわば“恩庇”群体の庇護の下達成されたものともいえる。1980年代初、河北省正定県で党委および武装部関係の責任者となっていた習近平につき、習仲勲、齐心が河北省委書記の高楊に「習近平をよろしく」との書簡を送っていたとも伝えられる。因みに、高楊が省委常委会の席上でそれを暴露したことは、習家にとっての堪え難い恥辱であり、これを遺恨とする習近平は高楊の逝去(2009年)時の葬儀にも参列しなかったという。1988年、習近平は厦門市人民代表大会における同市常務副市長ポストの等額選挙(すなわち,無競争選挙)に“表現平庸“として得票数が過半数に満たず落選の憂き目に遭い、福建省寧徳地区書記に異動するが、これも習仲勲が同郷の党中央組織部秘書長何載経由で福建省委の項南に根回した結果とも伝えられる。そもそも習近平の福建省入りは、習仲勲の福建省委書記の賈慶林への懇願ゆえともいう。中国における高官の出世プロセスでは、下放された基層から県市級へ、そして地庁級から省部級へという乗り越えるべき二つの“関門”があるが、そのいずれの段階にあっても習近平の関門突破は親家の“恩庇”によるものとみられる。 

 自信に裏打ちされたどころか、こうした経歴に関する劣等コンプレックスの裏返しのゆえか、習近平は自身に関する教養溢れる文化人イメージの演出粉飾に努めている。各国首脳との懇談時には1000m泳ぐことを日課としていると語るほか、老荘から始まりシェークスピア、ゲーテ等古今東西の名著を列記した自らの“愛読書リスト”を示すともいう。トクヴィルの以下のコトバが思わず想起される所以ではある。

“歴史の中の多くの指導者の知識構造、文化水準、政治判断力、価値選択は青少年期のある段階にとどまっている。……何らかの機縁で権力を得るならば、智力、知識の発展が停止したその段階の資源から、自身の政治理念、価値選択、統治プランを構築する。
此種の人々の性格は、執拗、偏執にして盲目的なまでに自信に溢れ、愚かなまでにある種の価値を守ろうと国家、民族発展の新たな方向を開く。” 

トクヴィル

 こうしたトラウマ傾向から、習近平が“掌控一切”とばかりに、中央国家安全委員会、中央網絡安全和信息化委員会、中央軍委連合作戰指揮中心、中央全面深化改革委員会、中央全面依法治国委員会、中央審計委員会、中央軍民融合発展委員会等々各種の40余の領導小組のトップの座を占めている。まさしく「瑣細な管理者」たることを目指さらざるを得ない小才指導者の宿命ともいえよう。
 この“掌控一切”ぶりは、胡錦濤時代の《九龍治水》、すなわち,9人の常務委員の“一致同意”を原則とする集団指導制の伝統を破壊するもので、まさしく習近平個人の専制情況を示すものである。

習近平の憂鬱・焦慮 :政敵、外敵、内敵

 次にもう一歩進めて、こうした疑心暗鬼に陥った習近平の内面心理に迫ってみよう。それは、異論、異分子、つまり政敵、外敵、内敵の三つの敵からの攻撃・叛乱を怖れる憂鬱、焦慮だ。中南海内外における政治的ライバルという「政敵」、国外から体制転覆の陰謀を張り巡らす「外敵」、そして外ならぬ中国社会自身の叛乱という「内敵」が襲って来るという悪夢である。具体的には、二つの悪夢に集約される。一つはこれら「敵」が“徒党を組む”という事態で、その敵の多少、すなわち,規模の問題とも言い換えることができる。

 当時の党員総数を上回る信徒数を公表していた法輪功が公安当局が察知する前に中南海を囲い込む不気味なデモを展開したことに肝を冷やした江沢民以来の悪夢である。少数の「敵」がバラバラに分散している限りは、個別に対処すれば済むものの、優れたリーダーが現れ、また全体をまとめ上げる何らかの価値、目標に向かって、「徒党を組む」ことで、規模が拡大し、組織化され、運動として拡がって行く…まさに規模の悪夢といえよう。⻩⼱の乱、義和団等中国史を紐解くまでもなく、更には外ならぬ党⾃⾝が建党以来このプロセスで権⼒奪取に⾄ったことからすれば、この叛乱エネルギーの集団化の悪夢は既に党DNAに組み込まれていることであろう。

 もう一つの悪夢が、例えば、香港、台湾でなにか不都合な事態が発生した際に、外交部スポークスマン等が常に口にする「外国勢力の陰謀」という常套フレーズである。少数⺠族の分離主義、⼈権活動、⺠主化運動あるいは⾹港における⼤衆運動等「不都合な事態」に接した際の中国側公式反応がほぼ例外なく「外国勢⼒の陰謀」が暗躍していると⾮難することにも窺われる。 

 かつて毛沢東は「和平演変」、つまり平和的手段による社会主義体制の転覆を狙った西側の陰謀への警戒感を国内的引き締めに活用した。改革開放期を迎え、西側との関係強化から、この「和平演変」反対のスローガンはあまり表には出なくなったが、やはりこの「反中勢力、外国勢力の陰謀」の悪夢は中南海の底流として存在している。
 畢竟するに、権力を手中にしたが故にトラウマに満ちたジレンマ情況に陥ることになる。敢えて「ヘンリー六世症候群」とでも名付け得るような権力者のジレンマを列記するならば、以下の通りである。

習近平のガバナンススタイル

 では、最高権力者しての孤独に陥り、周囲への疑心暗鬼に苛まれる習近平はどのような執政統治を進めようとしているのか。実は、古今東西、統治の手法・手段はさして沢山の種類があるわけではない。

 1)カリスマ支配=帰依(毛沢東型のリーダーシップ)、2)制度統治=信頼(合理性、ルールへの準拠)、3)弾圧政治=恐怖(力による異論、異端の排除)、4)大衆迎合=人気(不満・期待の先取り)といった4種のガバナンス・スタイルに集約されるが、習近平自身、毛沢東のような絶対的な個人カリスマを持っているとは過信してはいないだろう。なるが故に、習近平のガバナンスの選択とは、上記2)から4)の制度統治と高圧的な政治弾圧スタイルと大衆の不平不満あるいは期待感を先取りする人気取り政策で大衆に迎合するポピュリズムを組み合わせた、制度的に保証された剛柔相異なる対応といういわばハイブリッド型の統治を進めることにより、結果としてカリスマ情況を作り出すという「情況カリスマ」的ガバナンスに向かわざるを得ない。この意味で習近平とは、従来とは異なるハイブリッド型の情況カリスマ指導者と位置付けることもできよう。まさしく今日の中国の現実の政治状況はこうした習近平の選択を示している。

ひよわなポピュリスト 

 個人の意識のありようが社会意識に反映され、それを“学習“した習近平がさまざまなポピュリスト政策として打ち出しているという構図を一つのストーリーとしてまとめると別掲図になる。つまり、確かにかつてに較べて暮らし向きはよくなったものの、あの連中には到底敵わないし、明日どうなるかはよく分からないと不公平感から、改革開放以来の競争レースに倦み疲れ、個人としての“チャイニーズ・ドリーム”を諦め、その不安心理を自らを上回るヨリ大きな存在としての国家、民族の“チャイナ・ドリーム” へと昇華させることでひよわな自尊心の強化を図る……かつて魯迅が描いた「阿Q精神」の現代版と言えなくもない。後富者・未富者の不公平感が「内巻( =競争)疲労」の結果としての“躺平族(寝そべり族)”をも⽣み出しており、こうした現象は、メリトクラシー(業績主義︓正当な努⼒が正当に評価される)の終焉を意味している。

 社会のレベルでは、そうした個の不安を全体へと昇華することで⾃らのひよわな⾃尊⼼を強化すべく救世主信仰にも似た⼤国意識が拡がっている。とはいえ、字義通りの「強国」には⾄らずとの冷静な判断も⼀⽅にはあることから、諦念と⾃⼰欺瞞を綯交ぜにした現代版「阿Q精神」とも⾔える。こうした⺠意・⺠⼼動向を“学習”した成果として、習近平はさまざまな⺠⼼掌握のための⽅向を打ち出している。

 こうした民意・民心の方向を“学習”した結果として、習近平が打ち出しているのが、共同富裕/三次分配の再強調に象徴されるポピュリスト政策である。詳述する余裕はないにせよ、不動産投機抑制、資本所得(配当、資産譲渡益)への徴税強化、芸能人の脱税摘発、ファンクラブ集資禁止、美容整形規制、学習塾/宿題規制、USB(ユニバーサル・スタジオ・北京)開業、広場舞、クリスマス、ネット布教の禁止等々、枚挙の暇もない。これらポピュリスト政策の展開が、抑圧的な強硬統治と共に習近平の制度的権力の強化に寄与している。

 翻って、こうしたポピュリスト政策には、ひとびとの間にある種の“熱狂“ zealを巻き起こすことで政治社会的統合を達成することが前提となっている。そのツールとは、従来「建国の熱狂Revolution zeal」、「改革の熱狂Reform zeal」が有効に機能したが、前者では社会主義イデオロギーの失効により、後者では貧富の格差の拡大という不公平感、不平等感の浸透により次第に減衰してしまった。今その役割を果たすべく政治的に期待されているのが、大国意識に支えられた“中国夢” であり、習近平が「中華の偉大な伝統の復興」と表現するものである。

 こうした⺠意・⺠⽣重視のポピュリスト・スタイルの政策を習近平が進めようとするのもまさしくこの所以である。先般発表された新たな「歴史決議」には、「新時代における我が国社会の主要な矛盾は人民の日増しに増大する素晴らしい生活への需要と発展の不均衡かつ不十分との矛盾」とされている。すなわち、ひとびとのよりよい生活へのニーズに対し、われわれの供給が不十分なことこそが今日の最大の矛盾だという習近平のポピュリスト認識をここに窺うことができる。

 その意味で、習近平ガバナンスを民意・民心を“背乗り”したポピュリズムと形容することができよう。内に向かっては、社会福祉、公共サービス提供レベルの引き上げ、公正/平等、廉政建設を謳い、外に向けては、より「大国にふさわしい」地位と尊厳を追求するという政局掌握のための民意・民生重視スタイルだからである。

 また、敢えて、この習近平ポピュリズムに“ひよわ”という形容句を冠するのは、精妙且つ慎重な政策/政権運営ステアリングが求められるがゆえである。特に、人心掌握のために人事掌握が肝要だが、そこには縷々上述した通り、周囲の忠誠心/忖度レースがあり、その結果として確証バイアスの罠も控えている。更に何らかの形で習近平の手許に「民意」がそのまま届いたとしても、それは単なる「権力のまなざし」を内面化した結果としての“自発的服従” に過ぎないのかも知れず、⺠意の掌握には危うさが漂う。

 その意味で、中国の最高権力者の座にある習近平をプロファイリングしてみると、《ひよわなポピュリスト》というイメージが浮上することになる。習近平は、登場当初ディズニーの「くまのプーさん」似の体型から凡庸な指導者ともいわれ、最近では強大な権力基盤を確保した毛沢東超えを狙う独裁者ともされるが、容貌のみから、あるいは制度の表層のみから判断するのは大きな間違いとなる。敢えてそうした従来の習近平像に挑戦すべく《ひよわなポピュリスト》というイメージを提起してみた次第である。           
                                [了]





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