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リン・リード・バンクス 『リトルベアー 小さなインディアンの秘密』

僕にとっての作品の要点:
少年オムリは、不思議な戸棚と鍵を手に入れる。この中に入れたプラスチックの人形は、そのサイズ、彼らの時代設定のまま生命が吹き込まれる。こうして19世紀からやってきたインディアンの「リトルベアー」やカウボーイの「ブーン 」と、少年たちの生活が始まる。現代の日常生活は、この「秘密」を抱えた少年たちには究極にスリリングなものになる。

1980年の作品。原題は The Indian in the Cupboard。
作者のバンクスさんは、1929年、ロンドン生まれ。作家になる前には女優やテレビ局勤め、記者なども経験したそうだ。第二次大戦を経て、ユダヤ人やイスラエルに関心を深め、1962年には移住し、キブツで教師をした。

作家としては、1960年から大人向けの小説を書いた。イスラエルに住んだときにはすでに作家としての名声があった。

1971年にはイギリスに帰還。本作は帰還後のイギリスで書かれたもの。

本作は彼女の人気シリーズ、リトルベアーの冒険のはじめの一作(三部作)。全世界で1千万部を売り上げ、80〜90年代に一世を風靡しました。そしてインディアン(インディアン・アメリカン)に対する描写が問題視され、批判を受けた様子。

これは僕の実家の本棚に埋もれていて、僕自身は少年時代に読んだ記憶はありませんでした。こどもの教育に関心の強かった両親が買ったものでしょう。

38歳の僕が初めて読んでみました。

おもしろいです。ただ、ちょっとリベラルっぽい人が読めば、人権意識に欠けるとか言われるでしょう。2022年の現在これを読めば、とても斬新な感じがあります。

なんといっても、主人公の少年オムリと友人のパトリックが、生命ある二人のおじさん(リトルベアーとブーン )の生殺与奪の権を握っているのです。彼らは「魔法」の名の下に、生命を生み出す力で小人をもてあそびます。

それに、こども文学では避けられがちな、生きるか死ぬかについてのきわどいセリフや場面の多いこと…でも、異文化の理解は生易しいものではないことを伝える。これは、異文化摩擦に苦しんだことのある国々のひとに受け入れられたのだと思います。

歴史が語られます。主人公のオムリは、自分がインディアンの保護者になってしまったことから、読んだこともないような歴史、社会科学の本をひもときます。小さなインディアンやカウボーイの時代を知ろうとするのです。

作品には、二重のフィクションが仕掛けられています。ひとつはガリバー的な巨人と小人という関係性。もうひとつは、今を生きる少年と、19世紀を生きたおじさんたちというギャップ。

描写が、エンデヤンソンよりもリアリズムに基づいている感じもあります。リアリズムというか、ビターな感じです。苦い。

エンデやヤンソンは、作者の思いつきで書かれている部分、いうなればアドリブが強い感じがするのですが、こちらはもっと練られている。そしてよくこどもの行動が観察されている感じがします。


オムリとリトルベアーの出会い。

「ごめんね、気にくわないことをして」
インディアンは、腕をくんだままゼイゼイとあらい息をついていた。なにもいわずに、まるで、どんな目にあっても、びくともしないぞといいたげな、いばりくさった顔でオムリを見つめている。
「きみの名前はなんていうんだい?」オムリはたずねた。
「リトルベアー(小さい熊)。」インディアンは得意げに自分を指さしていった。「勇敢な、イロコイ族。首長の息子。おまえ、首長の息子か?」インディアンはするどい視線をオムリになげた。
「ううん。」オムリは、はずかしそうにいった。
「ふん!」リトルベアーは、見さげたような目をして鼻をならした。

「誕生日の贈り物」より

こどもをボコボコに殴るとされる校長先生が登場。しつけのきびしいことで知られたかつてのイギリスの学校の面影がみられます(今も名門校ではそうだとか)。

校長先生もパトリックの涙を見た。この先生は意地悪な人ではなかった。必要なときには子どもたちがふるえあがるほどしかれなければよい校長とはいえないが、ジョンソン校長はいたずらに子どもを泣かせてよろこぶような人ではなかった。

「校長先生の怒り」より

インディアンとカウボーイ、2つの生命の責任を預かっているオムリが、友人を諭す。

オムリはニコリともせずに、パトリックを見つめつづけていた。
「おれに……おれに、ブーン をくれないか?」パトリックは小さな声でたのんだ。
「だめだ」
「たのむよ! ばらしたのは悪いと思ってる。しかたなかったんだよ!」
「あぶなくて、きみにはもたせられないよ。あの人たちを道具みたいにつかうんだもの。あのふたりは人間なんだよ。人間は道具じゃないだろう」

「ぬれぎぬ」より

そのセリフ、オムリ、あんたにもあてはまるんだよ、と内心思ってしまう。うん、まあそれはいいんです。

現実をみれば、インディアンとカウボーイには、血の歴史がある。この歴史的なキャラクターが物語では大事な役を与えられています。

「白人、国のなか、はいってきた! 水、つかった! 動物、殺した!」
「それがどうした? 正しいものが勝つんだ! おれたちが勝った! ヤッホー!」

「カギがない」より

ブーン の生命の危機に、首長となったリトルベアーを強く諭すオムリ。

オムリはリトルベアーを日本の指でつまみあげた。
「それで、きみは、まだ首長だっていうのか?」オムリは怒ってつめよった。「首長というのは、感情をおさえられなければいけないんだ! ほら!」オムリはふみにじられた羽根飾りを床からひろいあげ、リトルベアーの頭にななめにのせた。
「いいか、首長、自分をよく見るんだ!」

「床下の冒険」より

生命を操ることになるのだから、少年たちは物語の数日の間に信じられないくらい成長します。そういう成長物語でもある。でも、バスチアンがファンタージェンで成長するのとはちょっと違う。何か、もっとリアルなんだな。リアルというか、苦いんだな…

いやいやどうなの?っていうくらい、設定が主人公中心的です。でも、こどもに隠されがちなリアルな面というか、苦い面が描かれていて、とても参考になりました。

エリート教育の本場イギリスの価値観も感じます。怖い校長を筆者目線で肯定していたり、冷静さの大事さが叫ばれたり。何より、英国の少年がカウボーイやインディアンを操るという設定。

でも、そんなこと言ってたら本当に書くべきことも書けないよな…とも思う。日本生まれ日本育ちの僕にはギョッとする設定だけれども、物語は、カウボーイとインディアンが強力に押し進めていく。批判されたりするだろうなあ、今だってこういう部分は。

僕は自分の仕事から思いますが、こどもをふるえあがらせる校長先生は、いい味出しています。回収されない伏線みたいになっちゃいましたけど。もっと描いてほしかった。

いろいろあるけど、本当に、悪気ないんだなと思う。それでいいんじゃないかなあ…これはカウボーイとインディアンじゃないと成り立たなかったんじゃないかって必然性すら感じます。

意外と作者からしたらたまたま選んだだけなのかもしれないけど。

異文化理解は、容易いものじゃない。そういう前提に立って書かれているところが好印象でした。

オムリ、インディアン、カウボーイが、生の人間なんだな。

画像は、第一版の表紙より。
参考:https://www.lynnereidbanks.com/materials-for-learning

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