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父の日に初めて父を振り返る

今は亡き…ですが、父のことに少しふれてみようかな。と。

子どもの頃のことは正直忘れてしまったことが多いのだけど、、やっぱり普通のお父さんではなかったな。と思う。

背は小さくて、、母より低い身長で。
それでも顔はカッコよくて、
カッコつけるけどキマらなくて…
車の運転が上手で色々連れて行ってくれた。
趣味が多くて、ボーリング、野球、スキー、カメラ。頻繁に行くわけでもないのに
ボーリングの球や、スキー板、あらゆる物が家にあったな。おそらく、見栄っ張り。

家には殆ど居らず、よく酔っ払って帰ってきた。バタンとひっくり返り、少したつとムクッと起き上がりよろけながらトイレで吐く。
私が「オエ」系が苦手なのはここが始まりかもしれない。「警察24時」みたいな番組を観ている時によくこの状況になるので、この番組が始まると私の方が冷や汗が出てモヤモヤしたものだった。

たぶん父はお人好しなんだろう。と思う。

ウチは借金だらけだった。
誰かの保証人になって逃げられ肩代わり。
ほんとのところはよく分からないけど。

学校へ行く前、朝から借金取りが玄関前に来ては大声で
「○○さーん。早く金返してくれねーかなぁ」
「居るのは分かってんだよ!表に出てこいよ!」
と近所中に聞こえるように騒いでいた。
姉はなんだか慣れたものでマイペースに朝ごはんを食べながら、ビクビクする私に、
「学校、間に合わなくなっちゃうから行きな?」と言って玄関で見送ってくれた。
その時、母は台所の隅で体を丸め、コソコソと隠れ、私に「行ってらっしゃい」を言うことはなく、
「誰も居ないって言って!」と…。

そんな伝言が出来るわけもなく、逃げるように学校へ向かった。

帰ってから知った話しだが、その後、借金取りは土足で家の中に入り、さんざん母を脅して帰ったらしい。

こんなことは一度や二度ではないし、
一年、二年で終わる事では無かったから、数年後には姉同様、私もだいぶ図々しくできたものだった。

近所中が知っていることだから、当然友達の耳にも入る。
あれこれ聞く子もいれば、いつも通りの子もいた。でも、私も子どもながらに必死だったのか、言い訳にもならない言い訳や嘘がスルスルでるようになっていたから誰かに何か聞かれたところで堂々としたものだった。
電話料金を払えず電話が止められた時も、
「電話を落として壊れたから今は電話が使えない」
…嘘をつこうと思うより先に口から勝手に出てくる。
どんなに悩んでも、どんなに母がコソコソしても貧乏に変わりはなかった。
父はどうしてるのか?と言えば、
…分からない。いつも居なかった。

時々しか見かけない父と、威張るだけ威張って母を泣かせる父方の祖母、いつも痩せていて、自分自身もギリギリであろう母。
3人の姉のうち、2人は一緒に住んでいたけど、その当時、いつも居てくれたのはすぐ上の姉だけだった。
私が小学生だった間に、
「あー。ウチって普通のウチじゃないんだなぁ」と思い始めた。

小さい頃、よくどこかへ連れて行ってくれてた時は、必ずと言っていいほど母ではない女の人と、同じ年くらいの女の子、もう少し小さい男の子が一緒だった。
女の人は綺麗な人ではなかった。
子ども同士が話すこともあまりなかった。
動物園なんかに行って、夕方家に帰ると、
母は小さい声で、そして嫌な顔で
「今日もブーが一緒だったん?」と聞いた。
私はどれがブーなのか分からなかったけど、子どもなりに考え、
(あの女の人がブーなのか。)と思い、
「うん。」と答えた。

中学にあがった時、父と母は離婚した。
母と二人で暮らすことになった。
今までの家から遠くない場所に引っ越すことになり、母は暗くなってからリヤカーに必要な物を乗せては夜逃げのように荷物を運んだ。
二軒つづきの長屋が私と母の家になった。
私に気を遣ってなのか?純粋に何かから解放されたからなのか?母はよく笑うようになった。二軒の長屋の隣が空き家になったので、自立していたすぐ上の姉も越してくることになった。
そして、何故か父もよく遊びに来た。
今までどうしてたのか分からないくらい見かけなかった父を頻繁にみるようになった。

私は寝てしまったけど、姉と母と3人で夜中にラーメン屋に行ったり、仲が良かった。

中学2年の時、学校で変な噂が耳に入った。
「1年生の女の子が、○○ちゃん(私)と姉妹だって言ってるよ。」と。
辿ってみたら、それは小さい時によく一緒に出掛けてた子だった。私は、
「いや、違うよ。たぶん親同士が知り合いみたい。昔からどこか行く時に一緒に行ったりしてた。」
そう思ってた。
…誰に追求したんだろう?思い出せない。
学校での噂を長姉に話したのか?
…母には聞けなかったと思う。

とにかく、、
…噂は噂ではなかった。

今思えば、薄ら笑いの顔で先生に話したと思う。友達には話せなかった。
そのまま、感情にフタをしたと思うけど、
あの子の方が先に知っていて、あの子が自分で言いふらして、それが許せなくて嫌いだった。

父は、
父の借金で家族が様々な思いで生きる中、自分だけは隠れ場所を確保していたんだろう。
驚いたことに、父の別宅には、5人の子どもがいた。一番小さい子は、長姉の娘、
…初孫と同じ年だった。

私がその事実を知ってからも、変わらず遊びに来ていたし、
そこから私たちが引っ越しても行く先々に父は来ていた。
借金はずっとあり、子どもたちで毎月お金を出しあって返済した。
時にはヤミ金なのかな?ヤ○ザの組長みたいな人に姉2人が呼び出された事もあった。
姉たちは、青白い顔で出ていったけど
関西弁の親分は、よく話しを聞いてくれて、とても優しくて頼もしかった。と言っていた。

そして、父はどんな時も安定して、よく姿を現した。

末っ子の私も高校に関わることは殆どバイト代でやりきり、無事に卒業し、やっと本格的に仕事ができるようになった。この日を待ち望んでいた。早くお金を稼ぎたい。早く大人になりたい。家にお金を入れ、自分の自由なお金が欲しい!

数年後、父はもともとの器用さを発揮し、
古くなった温泉宿を修復するため住み込みで温泉街にいたらしい。

給料日、いつものように若い衆と飲みに行き、住み込み先の露天風呂に入り、
翌朝、そのまま亡くなった。

酔って風呂に入り、12月の寒い中、露天風呂で寝てしまった。若い衆も朝まで一緒だったらしいが、隣にいる父に気づいて起こしたけど反応がなかった。と。

現地まで駆けつけた姉は、顔を見るなり号泣したそうだ。一番仲の良かった娘が
駆けつけてくれて泣いてくれて嬉しかったかな?
現地でお骨にしてもらい、私は骨になった父と対面した。
「おじー(父の呼び名)が死んじゃったって!」と姉から連絡が来た時は、反応する前に勝手に涙が出たけど、お骨の父を前に、私は何の感情も出てこなかった。
深掘りせずにきたから、なぜ無感情だったのかは今もよく分からない。
ただ、印象に残っているのは、
「おじーね、歯が入ってたんよ。
歯医者行くお金あったんだね。久々に前歯が全部あってカッコよかった」という姉の言葉だった。

父の日に、父を思うことは初めてかもしれない。嫌いなわけではない。
書ききれないけど、父に関してはエピソードが多すぎるくらいだ。

ずっと借金と共に生きて、返しきれない分は死んでしまってからも姉妹で返した。
遺品整理の為に行った一人暮らしのアパートは、きれい好きがよく分かる整えられた部屋だった。押し入れにあったノートには、
誰かに暴力をふるわれた記録と、証拠写真、そして、女好きがよくわかる手書きの女性器
(姉は、情けない。と苦笑してた)
と、飲み屋で出会った若い女の子の可愛らしさがメモしてあった。
最後まで、人間臭さが満載だった。

私がここまで生きるにあたり常々思う。
この父が居なかったら、私はこんなにポジティブに生きられていないだろう。と。
父の存在が私の日常にずっとある。
身近に、この父がいたから
私は大抵の事には驚かなかった。
貧乏も、女好きも、大人らしさも、大人なのに大人じゃないことも、そんな人をずっと好きでいることができる人がいることも…


そして、寒い日には布団の中で、自分の太ももに子どもの冷たい足を挟んであげれば
温かく眠れる事も。

今日は言ってみようかな。
お父さんありがとう。
…なんてね。

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