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『上州土産百両首』/義経千本桜『時鳥花有里』_六月大歌舞伎 歌舞伎座 昼の部

上州土産百両首

正太郎(中村獅童)は、居候させてもらっている掏摸の与一(中村錦之助)の家に帰ると、与一と三次(中村隼人)に、いま起きたことを話す。
おさな友達の牙次郎(尾上菊之助)と15年ぶりに会って食事をし、別れ際、元気でと抱き合ったのだが、あろうことか自分は友達の財布を掏り取った、と。
ところが話を終えてから、牙次郎もまたこちらの財布を盗んだことに気づき、自分と友の身の上の情けなさに萎れる。

財布を返しに来た牙次郎が、一緒にカタギになろうと涙ながらにうったえるので、正太郎も心を決める。
10年後に同じ場所で会おうと約束して分かれる、正太郎と牙次郎。

10年が経ち、正太郎は上州館林の料亭で板前として立派に働いていたが、そこに偶然にも、江戸を追われて旅をする三次と与一が、客として訪れる。

簡単なあらすじ

主人公は正太郎なのだが、彼を挟んで対照的な性質を持つ、牙次郎(菊之助)と三次(隼人)が生き生きとして、飽きない物語だった。

牙次郎はドジで、子供の頃から周りに馬鹿にされてきた男。
菊之助は、出の歩き方といい、着付けの雰囲気といい、大きく声を張らずに含めるような口調といい、牙次郎の性格が伝わってくる。

正太郎を訪ねてきたとき、家に上がろうとして慌てた牙次郎の片足から草履が脱げる。入り口をはるかに越えて草履がすっ飛んでいく。
それをもじもじと探して「…草履がなくなっちゃった」ってセリフで、もう完全に菊之助の牙次郎を好きになる。

三次は中村隼人。こちらも素晴らしい。

兄貴分の与一は三次に、莨入れをスリ取ろうとした自分の話をして、掏摸の矜持みたいなものを伝えようとするのだが、うまくいかない。

このとき三次の間合いから出る違和感もいいし、さらに、板前として成功した正太郎を、夜道で待ち伏せする場面がいい。

正太郎から二百両を強請り取ろうとするこの場面、隼人の三次は三階席から見ても、うっとりするような、いい立ち姿だ。
脚の崩し方、立ち方がうまいのだろうか。本当に絵になる。

三次の気持ちは、何となく分かる。

現実でもときどき、友人知人あるいは同僚の中に、なぜこれほどの人がこんなところにいるんだろう?ということが起きる。
今回の物語でいえば、たぶん正太郎だ。

能力や人柄の優れた人は、見合った場所へ進んでいくのが世のためだし本人の幸せでもある。

自分はそっち側でないと思っているのは与一も三次もおそらく同じだが、与一は掏摸として彼なりのポリシーを持って生きている。(莨入れの話がそれを示している)
そして年齢的にも、他へ踏み出す気持ちはないから、正太郎の背中を押してやれる。

三次は、違う。

どうで俺たちは掏摸だと笑い合った正太郎が、泥の中からひとり浮かび上がろうとしているとしか思えないのだろう。
しかも、正太郎を変えたのは、どう見たって出来の悪い、メソメソとした弱い男。
面白くない。憎らしい。いちど沈んだなら終いまでお前も泥を呑め。
そんな心かもしれない。

二百両を渡した正太郎が三次を呼び止め、これで縁を切るという約束を忘れるな、と念押しする。

ここで「うんうん」と適当に答えておき、たびたび訪れて金を強請る方法も三次にはあるだろうに、三次は挑発的に「なんの約束でしたっけ?」ととぼける。

長く金蔓として利用することより、いま目の前にいる正太郎を傷つけ幸せを踏み躙りたい、という感情が先に立ったようにも見える。

そういう三次が、皮肉にも毒々しいほど美しいのが、興味深い。

菊之助の牙次郎と、隼人の三次という対照的で強烈な存在感が物語を引っ張っていく。

惜しいのは正太郎の性質や魅力が、獅童の芝居から伝わるのでなく、牙次郎と三次の態度から浮かび上がってくるものに留まっているところだ。

正太郎と牙次郎の10年ぶりの再会は、悲しいものとなるのだが、菊之助演じる牙次郎が正太郎に向ける瞳や涙が、きらきらと無垢で美しい。

牙次郎と正太郎は、分かれのときと再会との二度、聖天の森の石段に腰掛ける。
石段を上がる菊之助の牙次郎は、二度とも、正太郎の顔だけをひたと見つめている。足元などチラとも見ない。
そして正太郎が捕まると、牙次郎は、身体に食い込む縄が痛いだろうと気遣うように、涙ながらにさすってやる。

声量は抑えながら情感のこもったセリフ、それに細かな動きに牙次郎の素直な優しさが滲む。
観る前は、菊之助という配役は意外だなと思ったが、また観たい役になった。

「こじきになろうが金持ちになろうが」、10年踏ん張ってカタギになろうな、と約束をした2人。こじきになるのは俺だろうなァと笑った牙次郎がカタギを貫き、料亭の娘と夫婦になるはずの正太郎が縄を受ける身となった世界。

物語そのものも興味深く、思い出してあれこれ考えるのもいい。


義経千本桜 所作事「時鳥花有里」

筋書には、次のようにある。

『義経千本桜』の道行所作事は、『道行初音旅』が今日では決定版となっていますが、江戸時代は毎回新作が作られ、上下二段の構成で旅芸人が芸尽くしを披露するなど、様々な趣向により上演されていました。

義経千本桜 所作事 時鳥花有里 解説とみどころ

今回上演されるのは、1794年に作られた道行所作事に着想を得て、新たな構成と振り付けなどで復活されたもので、2016年に初演されて今回が三度目の上演という。

来月(7月)の歌舞伎座『星合十三團』に合わせたチョイスというわけではないのだろうが、『義経千本桜』の前半ダイジェストっぽく見られるところがありがたい。

中村又五郎の義経、市川染五郎の鷲尾三郎義久。

又五郎はわたしの義経のイメージと違うが、染五郎の鷲尾が良かった。
細身で、化粧するスペースが足りないのではというくらいの小顔ながら、姿の勇壮さ、義経の軍功を示して励ます舞踊の大きさ、美しさに見入った。

白拍子たち(片岡孝太郎、中村児太郎、中村米吉、尾上左近)と傀儡師(中村種之助)も登場から華やかだ。

中村種之助の傀儡師が、三つの面を使って義経、弁慶、静を踊り分ける。
『義経千本桜』の弁慶はちょっと先走るというかトラブルメーカー的な描かれ方であるのも表れているし、とにかく気持ちのいい踊り。

知盛も面で登場する。
お岩さん、トイレの花子さん、貞子、のように見た目から一つのパターンになっている幽霊があるが、知盛もその域と言えそうだな、と妙な感想が頭をよぎる。
(もっとも、『義経千本桜』の知盛は自分を幽霊と思わせる作戦というだけだ。)

白拍子4人の華が舞台いっぱいに広がり、眩しい。
傀儡師を含めて、実は神託を授けにきた彼らなので、それに相応しい神々しさ。

神託に従って、義経たちは吉野へ向かい、詞は『義経千本桜』大序と同じく、義経について〽︎栄え久しき、と締めくくられる。

6月の歌舞伎座 昼の部、もう一つの演目『妹背山婦女庭訓』三笠山御殿の場の感想も、どうぞよろしくお願いいたします。


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