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【読書感想】『余白の時間(とき)』 松本白鸚

タイトルには『句と絵で綴る』と補足がついている。

166ページのうち53ページを、白鸚による句が占める。
他に絵と、エッセイ、対談。

読みながら、いろいろと反省した。

わたしが白鸚に持っているイメージは、
「常に主役」。

松本幸四郎(9代目)の頃から、西洋作品の舞台も、テレビドラマも、もちろん歌舞伎も、とにかく主役しか見た記憶がない。

2代目中村吉右衛門が、インタビューでよく「兄貴が…」と白鸚を立てていた覚えもある。

白鸚はテレビのインタビューでも物静かな雰囲気。
きっと、どんな役にも動じず、揺らがず、自信があって、若い頃から物事の中心で輝き、恐れもせず先頭を走ってきた人なのだろうと思っていた。

ところが、エッセイを読んで驚く。
小学生の頃は芝居が大嫌いだった、とある。
ひとりぼっちで、
学校では(役者の子ということで)いじめられたとも。

えええええ。

歌舞伎の松本白鸚は、姿は絵のようにかっこよく、セリフは歌のように心地いい。

正直、句を味わう素養がわたしは全くない。
(この本のメインなのに!)
絵も、特に動物を描いたものがめちゃくちゃ優しくて可愛いということしか分からない。

しかし、
句と絵、そしてエッセイを見て、白鸚の芝居の美しさの理由がなんとなく分かった気がする。

どれも、その文字数やスペースからは考えられないほどの広がり、ストーリーがある。

白鸚が、周りにあるすべてを、凄まじく貪欲に吸収していること。
受け取ったものを細かく分解していること。
そしてそれらを、もの凄く緻密に組み上げ、膨大な情報を盛り込んで芝居にしていること。

この本に、それが現れているように感じる。

本の内容から離れるが、歌舞伎の中で見る白鸚の「おかしみ」の芝居が、わたしはとても好きだ。

たとえば『素襖落すおうおとし』の太郎冠者。

あるじの使いで出かけた先で、太郎冠者は酒を振舞われ、素襖をもらう。ところが酔っ払って帰った彼は素襖を落としてしまう。
素襖を拾ったあるじは、探し回る太郎冠者を面白がって、「何か探しているのか?」ととぼける。

太郎冠者が訊く。
「…こなた何ぞ拾われたか?」

セリフの入りから語尾へ向かって音が上がっていく具合、奥ゆかしい口調と、いたって真面目な目の光。

堅物っぽい雰囲気から繰り出される、不意打ち的な笑いが素晴らしいのだ。

これもおそらく、白鸚のイメージとのギャップが作り出す面白さなんていう単純なものではないのだろう。

今年1月の『息子』を、わたしは2度見た。

とっつきにくい中にある、火の番の老爺(役名)の、愛おしい「ぶつくさ」感。

声を聞いているだけでも、火にかざした手の、節くれ立ってガサついた皮膚を感じたし、頑なな老人からフッと漏れるおかしみに心がじんわりした。

そして、(良い意味で)2度とも、寸分違わぬといっていい芝居だった。
この人の芝居は、「まだ、幕が開いて数日だからな」なんてこと無いのだと、恐ろしささえ感じた。

白鸚の芝居は、天才だから勝手にできたのではなく、嫌だ嫌だ辛い辛いというところへ飛び込んで、ひとり闘って、一つ一つ、掴み取ってきたものだったのか。

そう思うと、いま凄く、白鸚の芝居が観たい。