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2024年 四月大歌舞伎 歌舞伎座昼の部

2024年4月、昼の部は組み合わせが興味深い。

継子、異母兄弟、嫁姑という距離を超えて、互いを思い遣り寄り添おうとする『引窓』。
舅と婿という距離が近すぎてぶつかり合い、凄惨な別れになる『夏祭』。

『双蝶々曲輪日記』 引窓 

『引窓』は、与兵衛の機転により濡髪長五郎を逃がすまで、お幸を中心に主要な人物が互いに気遣い、血と義理の間で二転三転、結論を模索する話である、と思う。

この演目、お幸を中村東蔵で観られるのは嬉しい。
わたしにとって澤村田之助(6代目)と、中村東蔵は、どこにいてもはまるし、どんな演目でもこちらをすんなり感情移入させてくれる、すごい役者。
お幸の「おかん」の情感が、やはりさすがだ。

中村梅玉の与兵衛が、驚異的な若々しさ。
与兵衛の気性の可愛らしさ、愛嬌が冒頭から伝わってくる。単なる「いい人」でなく、傾城を妻にするだけのこなれたところもある、魅力的な与兵衛だ。

お早役の中村扇雀も声が老けないのがとてもいい。
セリフだけでなく、柔らかな中に艶やかさがあり、廓の空気が抜けきらない様子が出ている。

濡髪長五郎が尾上松緑。
この人は、面白い役者だと思う。
役の表現に関しては、セリフのまま、動いたまま伝わってくるので、内に多くを秘める役は向かない気がする。それでいて、この人の芝居では毎回、ふっと記憶に入ってくるセリフが一つはある。

されば相撲取りと申すものは、人を投げたり抛ったり喧嘩同然。勝負の遺恨によっては、侍でも町人でも、切って切って切りまくり、ぶち殺して、

名作歌舞伎全集 第七巻 双蝶々曲輪日記

5歳で実の母(お幸)と別れ、育ての親も亡くして相撲取りになった濡髪。
本人の心がけではどうにもならないことがある。
心根の良いしっかりした人物が、他人のために人殺しという重い苦しみを背負う不条理が、松緑のよく通る声で、一直線に伝わってくる。

いくらか予習していたので、お早がお茶をこぼすのは下手なのだなとか、手水鉢を見るきっかけも羽織を脱ぎかけて見得だなとか、型の部分も楽しく観た。
近いうちに上方の型も観られたら嬉しいのだが…。

それにしても、
頬のほくろがカネの包みで取れるというのは、全体の緻密なストーリーの中でびっくりする展開だ。

『夏祭浪花鑑』

意外だった。
片岡愛之助が団七なので、ド派手にぶちかますのかと思っていたら、手堅く、丁寧に丁寧に、一つずつ積み上げていくような芝居だった。
それが嬉しかった。

下剃の三吉は坂東巳之助。三婦(中村歌六)に、ふんどし(の端っこ)を差し出されて、ギョッと仰反るところ、角度とタイミングが素晴らしい。

愛之助は団七とお辰を演じる。

お辰は、一を聞いて十を知る聡明さ、三婦に物おじせず詰め寄る度胸の良さが気持ちいい。この人ならば磯之丞を預けてもいい、と三婦が感じるだけの人物ができあがっている。

団七の舅である義平次は、嵐橘三郎。
身体は細いが、内面の太い、とても面白い義平次だった。

今回、気づいたことがある。

自分がいつも「団七から見た義平次」ばかり見ていた、ということだ。

義平次は、団七をどう見ているのか。

侠客めいた、男が立つの立たぬのという言葉に、義平次は敏感に反応する。
団七も分かっていて、自分の口からつい出てしまったその言葉を誤魔化そうとするが、義平次はますます激しく団七をなぶる。
団七が背中の帯に挟んだ小綺麗な雪駄で、団七のひたいを叩く。

きっと、団七の話を信じて駕籠を帰してしまった悔しさ、腹立たしさだけではない。

そもそも、義平次は団七が心底気に入らないのだ。

娘のお梶だって場合によったら、琴浦のように高い値がついたかもしれない。

なのに、お梶と結婚して、子供を作ったのは、宿無しの団七。
吹けば飛ぶような身分の己らが何を勘違いして、義理だの男を立てるだの、侠客ぶっているのか。

義平次にとって生きることはもっと泥臭く、なりふり構わぬもの。
他人に泣いて感謝されたって、腹は膨れない。

嵐橘三郎の義平次は、団七に対するそんな憎々しい声が聞こえてきそうだった。

泥場。
愛之助の団七は、三十両あると嘘をついて駕籠を帰させた後、義平次に金を催促されて「え、」と惚ける。

これまで、わたしが観ていてクスッとなるセリフで最も短いのは、中村富十郎(5代目)の放駒長吉の「ずる、ずる」だった。
(『双蝶々曲輪日記』。自分が濡髪長五郎との相撲の取り組みを振り返る場面でのセリフ)

このたび、愛之助が記録を大幅に縮めた。

この、「え、」が2回登場する。2回とも可笑しい。

もっとも、団七は笑わせるつもりも義平次をからかうつもりもない。

団七は、義平次の催促するものに最初から気づいている。気づいていながら、どうにか誤魔化す道を探ろうと、わざととぼけている。わたしにはそう見えた。
義平次が声を出すたび、ぎくり、ぎくりと団七の心臓は嫌な打ち方をして、追い詰められていく様がよく見える。

その金ここにはございませぬ、のセリフでは、手ぬぐいをかぶる型があるが、愛之助はやらなかった。土の地面に突っ伏して、義平次の顔を見ない形だったと思う。

「悪い人でも舅は親…」。

団七の言葉に、義平次との関係に苦しんだ月日が滲むようで、歌舞伎は同じ演目でも、何度観ても面白いのだと再確認した。