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歌舞伎『摂州合邦辻』、『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』_秀山祭9月大歌舞伎 昼の部【観劇感想】

歌舞伎座の9月、昼の部を観てきました。


摂州合邦辻せっしゅうがっぽうがつじ

尾上右近の自主公演「研の會」でも同じ演目が出た。
歌舞伎座は、尾上菊之助の玉手御前(お辻)。

こちらは、底を割らない玉手だった。

母おとくに俊徳丸との不義の真偽を訊かれ、静かに目を伏せていた玉手は、わずかに唇をほころばせて語りだす。
つれない態度を取られるほど、恋は抑えられない、と。
その表情は作ったとも、本音ともつかない。

怒る合邦を押さえつつ、出家という道で説得を試みるおとくの望みを、玉手は「嫌でござんす」と打ち砕く。これからは髪も屋敷風から色街風にし、俊徳丸に惚れてもらう気、と。
あくまで上品なのが、いっそう玉手の真意を謎に包む。

出家のくだりで、おとくと玉手は「髪」についてやりとりしている。
文字では何ということなく読んでいたのだが、ここで「髪」というワードを出すのは、出家を示す分かりやすいものだから、というだけでないことが、今回初めて分かった。

子どもが身近になって知ったことだが、ヒトの髪は、年齢によって大きく変化する。髪は命をはっきりと映す、とでもいうのか。

幼子おさなごの髪はホヤホヤと頼りなく、枕にこすれるだけでも切れたり抜ける。それが次第に、色もしっかりして艶が出る。中高生にもなると髪はキューティクルつやつやで、生の歓び楽しみはこれからだという眩しさに溢れる。

「髪」を落とす/落とさないの話で表されるのは、「つづや二十はたち」の娘の人生から、この先の歓びトキメキをごっそりとぐ、ということ。
「出家」という言葉よりも、もっと具体的に、おとくが嘆いているもの、玉手が手放すのを拒んでいるものを指し示すのが「髪」なのだろう。

俊徳丸に迫る玉手の狂気も、期待以上。
この姿を見てもまだ心が変わらないかと言う俊徳丸に、玉手は甲高い声で笑う。なんの、自分のせいでそうなったと思えば、なお恋心は増す、と。

つれなくされるほど燃えるし、自分のせいだと思えばそれが負の方向であっても歓びに震えるというのだから、俊徳丸と浅香姫には、打つ手なしの悲壮感が漂う。

入平が見かねて意見するも、うるさそうに、髪に手をやるふうで耳を覆う玉手。上品さゆえに却って憎たらしい。ぐいぐい盛り上がってくる。

どいつもこいつもうるさいとばかり、玉手はすっくと立ち上がる。
袖の千切れた右の肩を抜くと、「道も法も聞く耳持たぬ」、「邪魔しやったら蹴殺すぞ」。

この「蹴殺すぞ」の、血が噴き出すような目。

誰の芸談だったか、いちど浄瑠璃どおり「蹴殺すぞ」にしたら観客が笑ってしまい、「許さぬぞ」に戻した、というものがあった。

今回、客席は誰も笑っていない。
「蹴殺すぞ」が少しも不自然でない、なんて控え目な表現はあたらず、この菊之助の玉手だったら「蹴殺すぞ」だなと思うくらいハマっていた。

入平を追い出して笄を口に咥え、戸に手をついてまるのも怖くて美しい。
横に咥えた笄によって、口元がくわっと裂けたように見え、狂気が走る。
笄で戸に掛け金をすると、玉手は再び座敷へ上がる。

一番恐ろしかったのはここだ。
玉手はその目に浅香姫をとらえ、視線を外さず、懐剣を包む袋の紐を解きながら間合いを詰める。回り込むようにジリジリと。

玉手は俊徳丸の手を取り、もう一方の手で懐剣を振り上げる。浅香姫の海老反り。

ここまで、一切、底割れがない。

予習もしているし、展開は分かっている。
分かっていても、ハラハラする。この玉手はどこまで行くのか?と惹きつけられる。

合邦が走り出て、玉手の乳の下へ刀をぐっと刺し込む。
何を騒ぐのだと女房おとくを叱りつけながら、合邦も泣く。自分が信じてきたもの、歩いてきた道、何もかもがひっくり返ってしまい、自分はいったい何だったんだと、叫ぶように泣いている。

両肌、白の襦袢になったお辻が身体を起こし、道理でござんす、と父を見る。
血の気の失せた白い顔だが、ようやく、玉手が本当の顔になり、本当の声で話す。

手負いになってからも、盛り上がりは続く。まだまだ終わりではない。

次郎丸が俊徳丸の命を狙っていることを、高安様に伝えればよかったではないかと合邦に言われ、それは違う、と玉手ははっきり返す。
もし次郎丸が、そのとがで殺されたら、彼の母親に申し訳が立たない、と。

自分に馴染みのない「義理」という言葉で考えているうちは、ピンとこなかった、この部分。それが菊之助の玉手を観て、彼女は、人は誰もが”誰かの子”だ、と言っているのかな?と感じた。

なにかの妨げだから相手を殺す、あるいは、間接的にそうなる可能性がある方法を、玉手は取らなかった。

そう考えると、このあと玉手が、解毒のための生き血に合致するのが自分だと知った「その嬉しさ…」というセリフの清々しい表情も、なるほどと思う。
この計画で他者を犠牲にしなくて済む、という安堵にも見えるからだ。

そして、それと逆になっているのが、娘を殺した合邦

彼は劇中ずっと「殺す」選択肢を持ち続け、ついに実行する。

これはお芝居なので、刺されてから玉手は真実を語り、俊徳丸の病を治すことができる。しかし現実では、その間も与えられず殺される命がある。

人を殺すとは、どれほど取り返しのつかないことか。

それを、今まさに目の前で、合邦が見せている。

あたらめて実際の舞台を見ると、この物語は想像以上に面白い。もっと深く鑑賞できるようになりたい。

それと今回の『合邦』、登場人物の”手”が触れ合う芝居が多い。
劇中の箇所を挙げてみる。

  • 再会した玉手とおとくは、手を取り合って喜ぶ。

  • 玉手を殺したくないから家に上げるな、と説得する合邦は、おとくの手を両手で包むように握っている。

  • 盲目の俊徳丸を、浅香姫が手をとってサポートする。

  • 自分を刺した刀の柄にある合邦の手に、玉手はそっと自分の手を添えている。

  • 生き血を取るとき、玉手は俊徳丸の手をとって自分の膝にスタンバイさせ、血を注いだ盃を彼の手に持たせる。

  • 玉手が死ぬとき、両側から合邦とおとくが彼女の手を取って、合掌させてやる。

俊徳丸は盲目だから”手”で誘導する分が多い、という考え方もできそうだけれども、人の手のぬくもりや感触というのは、多くの人が思い出しやすいものではないだろうか。

継母の邪恋とか、お家の義理とか、非日常な内容で話は進んでいくわりに、観ていてあっさりと感情が持っていかれるのは、芝居の中で何度も”手のぬくもり”を伝えるシーンが出てくるせい…かもしれない。

年齢を重ねるにつれて生きることは複雑になるが、手に手を取る温かみに立ち返ることができたら、人はもっと健やかに生きられるだろうか。


沙門空海唐の国にて鬼と宴す

35分前まで『合邦』をやっていた中村歌六が、丹翁/丹龍で出る。体力がすごい。

橘逸勢たちばなのはやなり(吉之丞)が、予定の20年よりもずっと早く帰国したことを偉い人から責められている。聞く価値のある言い訳ならしてみろ、といわれて物語る形で始まる。

単行本で4巻ある原作を2時間にまとめ、憲宗皇帝(松本白鸚)に求められて書を残す部分も入れている。

玉蓮(中村米吉)の腕から取り出されるむしに黒のスライムらしきものを使ったり、動いていたようを壊すと中身が空っぽとか、空海が書を残す場面のプロジェクションマッピングなど、仕掛けは効果的だ。

原作は、予言めいた不可思議な高札の出現、人の言葉を話す黒猫、瓜を売る老人など、細々とした謎やエピソードが意外な形で結びつき、玄宗皇帝と楊貴妃の壮大な物語になっていく。

しかし歌舞伎は、誰(役者)が演じるかで、観る前から登場人物の重要度が予想できる。瓜を売る老人(丹翁)が歌六、白龍が又五郎という時点で、この人物は本筋に絡むことが確定で、「意外」でなくなってしまう。

こういうとき、たとえば橘逸勢とか玉蓮とか白楽天(中村歌昇)に意外な開花があると楽しくなると思う。
今回は、阿部仲麻呂と高階遠成たかしなとおなりを演じる市川染五郎がやっぱり怖いくらいうまいなと感じたくらい。
したがって全体としては、今後上演が重なると面白くなっていくのだろうか、というぼんやりとした感想に留まった。

喋る黒猫に取り憑かれた春琴を演じるのは、中村児太郎。
8月の『ゆうれい貸屋』で幽霊を演じていて、それに続いてバケモノ系
わたしは勝手に、児太郎は若いのに方向性はそれでいいのかしらと心配していたのだが、のびのびと春琴をしているように見え、これもいいか、と思った。

歌舞伎では楊貴妃(中村雀右衛門)が、まさかの設定になっている。

彼女は50年後も美しいまま生きており、年を取ることができないのだ。

ストーリーを短縮しているため、女方の役は玉蓮(中村米吉)と春琴(中村児太郎)、楊貴妃に絞られる。
だから、原作ではお婆さんになっている楊貴妃を、歌舞伎では若く美しい姿で宴に出すのかもしれない。

しかし、これはなんていうか、2つの点でモヤモヤする。

1つは、原作でも舞台でも触れられている、何物も同じ場所にとどまっていられない”色即是空”どこいった?っていう気持ち。
原作で楊貴妃の父親は、年を取るのを遅らせるという法を自分に用いて、超長生きしているけども…。

2つは、歌舞伎役者は年齢も境遇も一瞬で変えて役を演じられるのに、そこを活かす方法はなかったのだろうか?という気持ち。

振り返る仕草だけでそこに満開の桜を見せたり(吉野川)、弥生が座って畳に手を付けば客席が江戸城の大広間に思えたり(春興鏡獅子)。
そういう歌舞伎の力をもってすれば、老婆の楊貴妃に、華清宮かせいきゅうでの若き日の姿が見えるという内容も、やりようがあったのではと期待してしまう。

70才近い雀右衛門が、50年も歳を取らない楊貴妃を、涼やかに演じている。
ライチを食べて「ああ美味しい」という声は、甘く爽やかな果汁が喉を潤すさまを感じさせる。
せっかくの雀右衛門。
だからこそ、若く美しい姿だけでなく、もうひとつ何か欲しかったと思うのは、望みすぎなのだろうか。

お読みくださって、ありがとうございます。

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