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市川雷蔵『ぼんち』(1960年公開)

市川崑監督。大阪で四代続く足袋屋の若旦那の半生を描く物語。原作は山崎豊子。

簡単なあらすじ
いまは二人の息子の世話になっている喜久治(市川雷蔵)は、落語家の春団子(中村鴈治郎)に、22歳からの人生を語って聞かせる。
祖母と母に決められて迎えた花嫁、息子の誕生、離縁。4人もの愛人、父の死、足袋屋の主人としての奮闘、空襲による店と家の焼失。
それは、話を聞いた春団子が、「それはほんまのことでっか」と驚く半生だった。

好きだなあ、市川雷蔵の関西弁。

祖母が喜久治について「おとなしいのか太々しいのか」とぼやく通り、市川雷蔵は、ふわぁとした調子の中に、するっと毒のある一言を忍ばせてくるセリフ回しが巧い。

登場人物の比率では女性が圧倒的に多く、男性は市川雷蔵の喜久治と、父の船越英二だけと言っていいのだけど、この2人の存在感が女性たちに負けていない。

「喜久ぼん」こと喜久治は、22歳のある日、祖母と母に呼ばれる。
お前の放蕩は目に余る、女遊びをやめるか、嫁を取るか、どっちかにしろという。

それで喜久治は、祖母と母が選んだ弘子(中村玉緒)と結婚したのに、選んだ当人たちが弘子につらくあたり、産まれた子を取り上げると女性を追い出してしまう。

ここは見ていてちょっと辛い。この嫁姑の雰囲気は、1980年代の一般家庭でも身近にあったし、今も残っているはず。

再び独り身になってから、喜久治が関係する女性は芸妓やら仲居やら4人登場する。この配役がすごい。
(原作には後半に「小りん」という子もいるのだが、映画には登場しない)

ぽん太…若尾文子
幾子…草笛光子
比佐子…越路吹雪
お福…京マチ子

金田一耕助シリーズなど、わたしが見た市川崑監督の他の作品イメージでいくと、大人しくて幸薄い「幾子」役に草笛光子という配役は、ちょっと意外。それ以外はぴったりはまっていて、個性豊かでどの女性も活き活きとして美しい。

愛人の扱いにも、なんやかんやと祖母たちが口を出して、二言目には「それがうちのしきたりだ」とくる。
原作では、正妻でない女性に対する扱いや言動はなかなかに露骨で腹が立つぐらいなのだが、映画ではいくぶん柔らかく描かれている。

今の感覚で原作を読むと、わたしは喜久治に全く感情移入できないどころか、腹たつわ、という部分が多いのだが、映画では祖母と母の攻撃(口撃)を、そうでっか、とぬるりとかわして、そっと抜け道を探ろうとする市川雷蔵の喜久治は憎めないキャラになっている。

喜久治と4人の女性という観点で見れば、映画の中でこれといったクライマックスはない。
しかし、戦局が悪化して、ついに店も屋敷も空襲で焼けてしまうところは映画でも大きなインパクトになっている。
激しく燃え盛る炎を思い出して、「それにしてもよう燃えたな」と嘆息する雷蔵の喜久治の声には、悲惨な状況に対するツッコミのようで不思議なおかしみがある。

どうにか焼失を免れた蔵に、愛人たちが次々と避難してきて、さらに疎開していた祖母と母までも戻ってきてしまう。
狭い蔵の中で、愛人たちと祖母と母、それに店のものがひしめき合って眠る姿はなんとも言えずシュールだ。
(原作では、蔵で祖母と彼女たちが全員で顔を合わせる場面はない。愛人たちは蔵に一泊した後で寺へ出発し、祖母と母はそれより後で蔵に到着する)

蔵のシーンでは、祖母が喜久治を責める。
店や蔵は男のもの。家屋敷には私たち女の血が染み込んでいるのに、おまえは男だから、蔵は守っても家は焼いてしまったんだろう、と。

ここまで、何かと口うるさく悪者感のあった祖母が、急に年老いた祖母の姿になる。女帝のようだった強い祖母が、屋敷と共に脆く燃え落ちてゆくような感覚だ。

このあと、まもなく祖母は死んでしまうのだが、事故か自殺かと言葉が飛び交う中で、ただ黙って丁寧に祖母の顔を拭ってやる喜久治の横顔に、彼の人柄が滲む。横顔も美しい。

そんな母系家族の崩壊を知らない3人の愛人が、避難先の寺で、楽しそうに風呂に入っているシーンは救いだ。
彼女たちの強かさ、美しさ、明るさは、輝くばかりに尊い。
ここは原作ではもっと難しい表現で色々書いてあるのだが、映画はとにかくパッと輝くような華やかさで、目に楽しい。

喜久治は、その入浴姿を見ても、欲情も何も無かったことから、自分は女性を卒業したのだと感じたと話す。春団子への自分語りもほぼこれで終わりになる。

老いた喜久治の、ほけ〜っとした様子が、船越英二が演じていた喜久治の父にどこか似ているところに、しみじみする。

船越英二演じる父は、丁稚奉公から入婿で河内家の主人になった人で、常に祖母と母を立てて控えめ。
物語の中盤に肺病で死んでしまって、出演シーンは多くないのだが、端正な顔立ちと柔らかな調子に、常に切なさが漂って、不思議と最後まで記憶に残る。

原作を読むと、船越英二はセリフにない部分で、喜久治の父の性根をうまく表現していたのだと感じて驚いてしまった。

映画では、喜久治が商売に精を出すシーンは多くない。
タイトルの「ぼんち」とは、遊んでも仕事もぴしっと決める男の意味らしいので、原作も読んでみた。

スッキリしたかというと微妙だが、映画のあとで読むと、映画のキャスティングの絶妙さがあらためて分かる。贅沢で華やかで、ぴたりとはまっている。
映画に出てこなかった部分もイメージしやすく、あっという間に読めた。

文庫本『ぼんち』表紙

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