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闘病記その17-1

私のしてきたこと
1*子育てに関すること  2*趣味と実益を兼ねて  
3*役員あれこれ(PTA会長、教育委員、教育後援会、女性会)     
4*夫婦として(長男の嫁として。最強のパートナーとして)
5*医療法人の事務長として

最近、昔のビデオをよく見ます。お嫁ちゃんの、(いやもう娘と言おうかな)の瑶子さんに自慢するように見せたりして。ヘルパーさんやナースさんにも無理矢理見せたりして、「美穂子さん、いろんなことやっておられたんですねー」と言われて益々図に乗って次はこれ見てーてな具合にお仕事の邪魔をしています。
今回、せっかくいろんなことに挑戦してたんだから、そのことを記録しておこうかなと思い立ちまして。
まずは、子育てで、息子の習い事に母までがのぼせてやっちゃった笑い話。

1*子育てに関すること
一人息子のこともあってか、本人が好奇心旺盛だったからかどんだけ習い事するのー?ってほど、たくさんのことをやっていました。私はまるでステージママのごとく祐貴のお抱え運転手に徹してましたね。
先日瑶子さんと祐貴が来た時にちょうど昔話をしてました。
なぜか亡くなった父が男の子の孫3人に剣道の一式を買って残していったので、やらないわけにはいかず、ちょうど一年生になって通うことになった小学校で教えておられると聞いてさっそく見学に行ってみる。そしたら保護者の中に私の中学の同級生がいてびっくり。

おじいちゃんに見せたかったね。少年剣士姿を。

その同級生の娘さんも同じ一年生でいろいろ教えてもらう。体育館の冷たい床の上をはだしでする子どもたち。顔はうっすら紅潮して汗ばんで、面を取ると手ぬぐいから湯気が出ていた。練習の間母たちは、ママ友談議に花が咲き、ついつい大きな声で笑い過ぎて時々先生に怒られた。そしてお母さんたちも一緒に素振りをしなさい、といわれる羽目に。(>_<)もちろんさせてもらいましたよ。ダイエットになればと思いまして。
次に始めたのは野球だったかな?3年生だったかしら。まさかこれから大学まで野球一筋の人生を送るとは、思っても見ませんでした。おかげで中学の時、送迎用に七人乗りの車に変えましたからねー。野球は、練習試合や大会になると親の出番が多く朝早く集合して、終わったら片付けて、一日中外にいました。スポ少(スポーツ少年団)では、スコアラーもし、「4番、バッター、○○く~ん」とウグイスまで経験し、今思うと結構楽しんでたかも。

しかしウグイスで一番困ったのは、一度に四人くらいの守備位置が変わってその変更をアナウンスしなければいけないときです。誰がどこに行ってどうなって打順は何番になったかを。頭が真っ白にになったことも(笑)
そして親子対抗試合の時の始球式で投げさせてもらったこと。これはいい思い出になりました。高校野球では、本当に感動することばかり。
その中でもとりわけ感動させられたエピソードを私はこのフォーラムで発表しました。

そうそうたるメンバーの中に加わらせてもらい、旧悦至極に存じます。

息子が高校3年生の夏、甲子園を目指す最後の大会。三年生の中から二人だけベンチ入りできなかった。このことは、子どもたちも親たちも何とも言えない空気が流れ胸が締め付けるような気持ちになった。特にこの3年生は親も子もすごーく仲が良かっただけになおさらだった。ベンチから外れた子のお母さんは私の車の中で、かわいそうで何と声をかけてやればいいのかわからないといって泣かれた。もう一人のお母さんは、応援に来ないと言われた。私たちもかける言葉がなかった。
そして迎えた一回戦。始まる前にベンチの前で円陣を組んで気合を入れる。今日もその時が来た。あららー❔選手がみんなしてアルプス席の応援団の前に走ってくる―。あれ順番が違うよー、と思った瞬間その場所で円陣を組みだした。わっかの端は開けて。そのわっかの空いたスペースにフェンス越しに応援団席の試合に出ない野球部員たちが続きの円陣を組んで一つの輪ができた。もちろんその中にベンチから漏れて悔し涙をこぼした3年生もいたことは言うまでもない。

思いやりの心が詰まった世界に一つだけの円陣

私は慌ててカメラを取り出して何枚も夢中でシャッターを押した。最後の方は、レンズが曇ってピントが合わせられなくなった。応援席の保護者のお母さんはみんな泣いていた。なんてすばらしい思いやりの円陣だろうか。こんなことを考えられるこの子たちは、大人を感動させるこの子たちは、何て素敵な子たちだろう。なんてすばらしいチームだろう。試合が始まる前から感動の涙が止まらない。そしてその期待どおりの鳥肌が立つようなすばらしい試合をして、

念願の校歌をグランドの真ん中で歌っている後姿を見てまた母たちは号泣するのであった。この感動の円陣の3年生の半数以上が浪人した。そして全員の進路が決まったときに親子で集まってお祝いをした。その時何を思ったか私の単なる思いつきで提案したことがある。みんなの10年後の姿を予想してというか夢は何か❔を書いてもらい、タイムカプセルみたいにおばちゃんが預かっておくから、10年後に集まって読み上げようや、という無茶ぶりなお願い。おばちゃんの老後の楽しみに文句も言わず協力してくれた心優しい高校球児たちでした。
さてとっくに10年たってしまいました。私の病気のことは聞いてるかな?ウエブでやろうかな?なんて考えてます。相談しなきゃ。
バスケットは4年生からのいわゆる部活で始めたが、社会体育に移行する時期で親の出番や負担が一気に増えたころだった。私は保護者会のマネージャーという役目を仰せつかっていた。練習会場の確保、コーチとの連絡。練習試合や大会のエントリー、お弁当や移動手段の手配、試合前のシュート練習の見守り、ボール出しと、唯一コートの中、ベンチの横にいることを許される。

何を隠そう、こう見えても中学校時代の部活は、バスケットボール部である。(笑)イベントで親子対抗ゲームなんかがあろうものなら、元バスケ部の威厳に関わるので、負けるわけにはいかないと、大人げない本気でディフェンスしたりする母親であった。(≧▽≦)ただののぼせもん、こどもなのである。(*'▽')この他にも体操教室、これはキャスパルというショッピングマーケットのビルが会場なので待ち時間に買い物ができて便利でした。そして帰り道にある、ミートショップきたがきの揚げたてコロッケを買って車の中でハフハフいーながら食べるのが母と息子の贅沢なひと時でした。最後にスポーツ以外の習い事も。

ヤマハ音楽教室で、エレクトーンを少々。何を隠そう私はエレクトーン講師の資格を持っています。だから練習をしない息子に練習まで付き合うという熱の入れよう。がしかし、音楽を習いたいといったのは、息子からなんです。発表会にも二度出ました。立派なプラバホールの舞台で、猫耳つけて弾かせてもらいましたね。この時に仲良くなった男の子のお母さんとは今もお付き合いさせてもらっています。(Tさんありがとうございます。)以上思い出せる限り書いてみました。本当に自分も子ども以上に熱くなったり、夢中になってましたね。一度主人から「お前が祐貴よりのぼせてどうすんだ」とイエローカードを出されたことがありました。
このように息子のおかげで私もたくさんの体験をさせてもらえました。また、たくさんのママ友もできて、その方たちに今は助けてもらっています。
持つべきものは友。   このことばを実感しています。
次回は私の習い事について書きたいと思います。特に長く続けていたフラワーアレンジメントとフラダンスにはたくさんの思い出が。 


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