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『ボーはおそれている』感想─止まらない自責とその終止符


ボーの人生は、彼を責め苛むものによって取り囲まれている。例えば彼が居を構える、スラムという言葉では足りないほど物騒な地域。ヒエロニムス・ボス作の「最後の審判」を思わせるカオスと狂気に満ちたアパートの周辺は、ほんの少し外出しただけでも命の危険に晒され、家を占領され、蹂躙される。
その後も車に轢かれ、心身ともにに傷を負った退役軍人に追い回され…と数珠繋ぎのようにボーの受難が繰り出されるが、無力な彼の神経を十二分に擦り減らすのはそれらの分かりやすい脅威というよりも、常に彼の人生に付き纏う罪悪感じゃないだろうか。

映画の終盤、母殺しを終えて舟旅へ出たボーを待ち構えるのは、彼の罪を弾劾するための裁判所だ。これは長年にわたりボーの中で積み重なった罪悪感と彼が葛藤する場であり、そこで読み上げられる"罪状"はその罪悪感を形成する一片とも解釈できる。しかしその内容を見てみると、「叱られるのを恐れて自分を探し回る母親の前に出ていけない」「命の危険を感じて物乞いらしき男から逃げ回る」など、確かに思い返すと後味の悪さが残るものではあるが、そう行動するに十分たる理由のある経験ばかりだ。それらを見てもボーが"無垢で無害なフリをした"罪人として糾弾するには足りないように思えるが、最終的に有罪を告げられたボーはずっと不安定に振動し続けていたボートの転覆とともに水中へと沈み、二度と浮かび上がってこないのであった……。
このあまりにも救いのないラストの直前、弾劾の最中に真っ当な反論を挟んでいたボーの弁護士も、最終的には水上へ張り出した岩石の上へ突き落とされて無惨な最後を迎える。これは自己主張のできないボーの代弁者が強制退場させられるという点で、まるで少年時代のボーが"見た"ボーそっくりの少年とその末路の再演のようだ。
再演という視点で見ると、この裁判シーン自体も殺される前のモナとの対話と大いにオーバーラップしてはいないだろうか。彼女との対決シーンでもボーは、カウンセラーをはじめとするモナの雇った従業員や設置した監視カメラから得た情報を攻撃材料に、彼女から激しい弾劾を受ける。最後にははっきりと「お前を憎んでいる」との最終通告を受けたことでとうとうキャパオーバーを迎えたボーは彼女を絞殺するのだが、その後歩く死体のごとく茫然自失状態となった彼を見ても自明なように、これはボー自身の死でもあったといえる。そのため、ボーの内面の葛藤といえる裁判のシーンを見直すと、生きてるモナにされたと同様にモニター越しの彼の"罪"を突きつけられ、有罪宣告をされると同時にボーは処刑される…という反復がなされる。ボーの精神世界と現実の境界すらもほとんどなくなってきた中に組み込まれた洞窟(モナの子宮の暗喩だろう)内での裁判は、もはやボーとモナの癒着は不可逆なほどに進んでおり、その死すらも不可分であるという事実が二度にわたって観客に提示されるなかなかに残酷な演出なのだ。

この映画が始まった時点で、ボーは長年にわたる飼い殺し状態により、もはや他人への干渉がほぼ不可能なまでに無力化されている。目の前のトニがペンキを飲んで自殺しようを試みようと、言葉では必死に制止を図るも物理的には一切訴えかけない。
ボーはモナの呪縛によってモチベーションも主体性も剥奪されているが、それによってモナは自分に愛情を返しもしない不完全な息子としてボー(及び二人の関係性)への不満を募らせ、その支配は一層強力さを増す。この悪循環は、上で述べたような共倒れによってしか終止符を打つことができないまでに進行してしまっていた。少なくとも、ボーにとっては。

また、ボーの自責の念はその出生にまで及んでいる。心雑音の遺伝によってボーは生まれながらにして生涯童貞を義務付けられているが、それは後に判明するようにモナのついた嘘であり、この嘘は彼女にとってボーから異性を払いのけ、支配下に置き続けるための都合のよすぎるギミックとして機能する。そのためボーからすると、性行為及び異性関係でさえも自身の病を再生産する加害行為として罪とほぼイコールで結ばれている。終盤で母親に見せられた父親がイチモツの形をしたモンスターになっているのは、その禁忌を犯して母親に種付けした父の側面がボーの中で最大限のグロテスクさをもって具現化したためだろうか。また父親が自分を生み出す行為に携わったために死を迎えたことで、ボーは産まれてきたこと/産むことにおいて原罪を背負うことを運命づけられている、とも考えられる。
こうして見ると、モナによるボーの支配は彼への罪悪感への植え付けによって功を為したといえる。言い換えれば、ボーの人生自体が自責の念、ひいては他人へ加害することの恐れによって、モナの手中に収められていたのだ。

これまでの作品と同様、アリ・アスター監督の経験が大いに反映されているという『ボーはおそれている』は、生まれる(to be born)という受動的な行為によって背負わされた原罪や剥奪されて不在となった主体性、注がれた分の愛を返さないという理由で積み重ねられる罪悪感の内幕のグロテスクさを3時間にもわたって見せつけられる。この壮大で過激で不条理なオデュッセイアムービーは、逆説的に我々が日常的に抱き内在させる自責の根源を見つめ直させる、エクストリーム暴露療法映画だといえるのではないだろうか。

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