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さよなら黒髪ストレート

(※とことんネガティブな内容ですご注意ください)

就活のために黒髪にする人が増えてきました。
3か月前まで派手髪・茶髪・ブリーチしまくりのハイトーンだった友達が、

あれよあれよと黒髪ストレートに大変身。

私は、髪型に対して、
ファッション以上に個性を発散させる可動域が広い
「その人の人生の縮図」のようなものだと思っているのですが、

日に日に画一化されていって、
就活という戦場に向かうドレスコードのように思えて、
髪ではなく心が真っ黒になりそうです。

私自身は、黒髪というヘアスタイルにほとんど良い思い出がありません。

大学に入ってからの2年間、ずっと茶色で過ごしてきました。
つまり、大学入学前の人生すべて、「黒」歴史と捉えているのです

就職活動に向けて本格始動する最後の1秒まで
茶色でいようと思うのですが、

来年には黒く染めざるを得ないことが確定しており、
残りの猶予を1日1日大切にしているところです。

黒髪コンプレックス


私の地毛は黒です。めちゃ重めの黒です。

黒髪ストレートは、私のコンプレックスランキングでもかなり上位に食い込むものでした。

絶望的に、似合わない。とにかく重く見える。
地味に見える。

日本は黒髪信仰が強い(?)ですが、
私が自分の黒髪を忌み嫌う理由は

①もともと華のないルックスが、恐ろしいほど地味になる
②とにかく重く見える
③生まれ持った「ありのまま」の性質のひとつである

の3つ。特に③が大きいです。

黒髪を世間に晒すことは、私にとって、好意を持つ男性にすっぴんを見せること以上に勇気の要ることです。

高校時代に、たまに学校を訪れるOBOGの女子大生を見ては、
「一刻も早く黒髪から抜け出してやる!!!」と勇んでました。

今回は、この③について掘り下げることになりそうです

黒髪を辞めた日


この色がいいねと君が言ったから 3月20日は茶髪記念日

とでも言いましょうか

高校を卒業し、大学の合格発表が終わってしばらくした後、私は髪を染めました。

(別の機会にまたブログで書こうと思いますが、)

黒髪を断つことは、私にとって、命を絶つことのメタファーでした。

大学受験で第一志望に行けず、
本格的に自分の存在意義と人生のモチベーションが分からなくなってしまったあの日、「この世から出ていけ」と全ての人間から言われている気がして、自殺未遂しました。

それが3月上旬の出来事だったのですが、
私は以降、「自分以外の誰かとしてこの先の残りの人生を歩く」方法を探していました。
しかし

名前を変えるには、相応しい理由が必要だと分かりました。諦めました。
整形には、特に変えたいパーツもなかったうえに、痛みのリスクと費用を考えた時に絶対無理だと思いました。
交友関係を断ち切る?LINEの友達を全員消去する?
いや、他者との関係を変えたとて、自己は変わらないよなと思ってやめました。

どれもリスクしかないですね

分かりやすく、他者から見ても、何よりも自分が、
「生まれ変わった」確信を持てる象徴的な儀式。

考え抜いた末、
たったの4000円でそれを行う方法を思いつきました。

「髪を染める」

ノーダメージノーリスク
(髪は痛むけど)

髪染めは、卒業式よりも「人生の節目」として機能しました。

18年間の軌跡を全てリセットして、無かったことにする。
自分の、一種のアイデンティティでもある黒髪と決別することで、
新しい人生が始まるんだと思っていました。

アニメでよくある転生モノみたいな、
人生のリセットボタンを押すような。美容室を出た瞬間から
同姓同名で全く違う女の人生が始まるんだと、捉えてました。

「小学校も、中学校も、高校も、もっと言えば自分という存在自体、18年の人生が、私の美的感覚には合わない。作品として美しくない。」
人生に対する過度なルッキズムに憑りつかれていた当時の私には、
これ以上人生を続けることに吐き気がしていました。
「もうこの作品やだ。監督降りたい。キャストもオープニングも音響も照明も全部とっかえて、新しい映画取りたい。」

だから、アイコニックな身体的特徴で、かつ最も忌み嫌うべきである自分の
「黒髪ストレート」を破棄する。

髪を染められ、切られたあの2時間は、人生で最も長い2時間だったように感じます。

18年間の想い出、くまなく思い出そうと努力していました。
不思議なことに、負の感情しか覚えていませんでした。

その1つ1つを、頭の中で焚火にくべるイメージトレーニングをしました。
もしくは、黒いペンキで塗りつぶしちゃう。
または、燃やせるごみの袋に入れて、回収所に持って行き、市の焼却炉で灰と化し、埋め立て処分場に運ばれ東京湾の一部となる想像をしました。

丁寧に、ひとつひとつ、人生を捨てて生きました。

怒り。
哀しみ。
憎悪。
自己嫌悪。
悔恨。
嫉妬。
羞恥心。

なによりも、自分という存在。

美容室を一歩出たこの瞬間から、私は第二の人生をはじめるんだと
言い聞かせました。


いざ茶髪にすると。

自分でも驚くほどに、「本来の自分に戻った」感覚がありました。

「あれ…?本当の自分って、こっちじゃね?」みたいな

黒髪で長年生きてきたことが、
数学が苦手なのに大学入試の二次試験でわざわざ数学Ⅲを使うことのように、違和感を覚えました。

結果、新しい自分を心の底から気に入りました。

黒髪の自分を軸に生きてきた世界観とももうおさらば。
ニーチェの名言「神は死んだ」は、私にとって「髪は死んだ」です

同じ日に、制服も処分しました。
参考書も教科書も捨てました。
(※大好きな東京書籍の世界史Bだけは捨てられなかった。)
文房具も捨てました。
通学中に聞いていた音楽は、データごと全消去した。
大好きだった坂道アイドルも、今後の人生では聞かないようにしようと決意した。

中学・高校時代を想起させるアイテムは、ほぼ例外なく私的空間から排除しました。

そうしないと気が済みませんでした。
これが、臆病な私の情けない自傷行為です。

同時期に、メイクも始めました。
メイクは、都合よく第二の人格を脚色するのに丁度良い道具でした。

私にとって、髪を染めること・メイクをすることは、自分を美しく見せるためでも自己プロデュースの手段でもありません。社会的なマナーでもありません。
卒業式だけでは捨てきれなかったティーンズの自分と決別するために髪を染めて、10代政治を総決算するために化粧をする。という感覚です



だからこそ、また黒髪に戻したら、あの頃の自分が戻って来そうで怖いんです。
大嫌いだった自分が戻って来そうで、18年の記憶がフラッシュバックしそうで、怖いです


さよなら黒髪ストレート


私が9トーン以上の茶色にこだわるのは、高校時代の面影を抹消するため。
私が200度のコテで焼き焦がしながらカールを巻くのは、ストレートだった時代の自分をいまだに許していないから。
美容師さんに怒られても高熱で髪をいじるのは、ストレートヘアを他人に見せびらかす屈辱よりは、心が耐えられるから。
私が自眉に反発した吊り橋をかけるのは、自眉でいた頃の感性を思い出したくないから。
私が丹精込めて涙袋を錬成するのは、涙袋が皆無な卒業アルバムの微笑みに憎悪を覚えるから。
私がアイラインを潔く伸ばすのは、切れ長でない時の気弱な自分を封印するため。
私がミケランジェロに倣い命を削って鼻の影を彫るのは、華がなかった2年前の虚像を打ち消すため。
私が目を1.5倍に拡張するのは、その小さい目から流していた涙に吐き気がするから。
私が執念深くシェーディングをするのは、高校2年間マスクの下に隠し持っていた、あの忌々しいフェイスラインで作った笑顔に嫌気が差したから。
私がコンシーラーで唇を縮小するのは、厚い唇から生産される虚言で塗り固められた、付和雷同で八方美人だったいい子ちゃんの私が嫌いだから。
私が金属アレルギーを起こしてもアクセサリーをつけるのは、丸腰状態では
高校時代に戻ったような危うさがあるから。
笑いのツボも、口癖も、間の取り方も、脳のつくりも、
過去と現在が入れ子状になった自分の存在を全部消したい。だから
さよなら黒髪ストレート









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