雨傘とモバイルバッテリーは国有化してもいい
これまでの人生の中で、どれほどの傘を置き忘れ、取り違えてきただろう。
雨天が予報されていたのに、面倒がって持ち出さず、案の定道半ばで雨に振られ、駆け込んだコンビニで調達した傘は数しれない。
今使っている傘は、最寄りのローソンで私より少し前に入ってアイスを買っていった小学生が私の傘を取り違えた結果、傘立てに残っていた一本である。柄にはひらがなの名前がプリントされたシールがついている。小学生の傘を取ったと思われるので、傘の柄をいつもしっかり持っている。小学生が私の傘をとっていたのになぜ私がビクビクしなければならないのだろうか。
大学で習った。現代消費社会では持ちものは記号で、何を所有するかによってそれが持つ記号で自分らしさを対外的に示している。Nikeなら、しんどい時も諦めない自分、とかだろうか。Appleならシンプルかつミニマリスティックな洗練された生活、とかだろうか。それぞれに表現したい記号はあるかもしれないが、殆どの人にとって傘を通じて示したい自分らしさなどあるはずもないとその時思った。少なくとも私にはない。傘はシンプルに雨除けの機能として以外に何も表現しないのである。
無理に考えるとすれば、雨天予報を適切に確認したうえで、置き忘れずに傘を持ち続いている歩いているキチンとしたわたし、といったものか。やっぱりない。傘は瑣末すぎる。
そんなわけで私は安価なビニール傘しか買ったことがなく、誰かが自分の傘を持っていっても、特に不満もない。私も誰かのビニール傘を持ち去るだけだ。その時はなるべく同じ大きさ、色であることに気をつけてはいる。お互い様だからだ。
もうこれは共産主義の考え方ではないか。
大学2年生の頃、マルクスの入門書を友人と朝から読んだ日々が懐かしい。その時は、貨幣が、土地が、労働が、余剰が、資本が、と色々難しいことを理解しようとしていた(できなかった)のだが、数年して、どう考えてもずっと使われていなさそうな傘を職場から失敬して帰宅しようとしていた時に、あの時全然理解できなかった共産主義の一端を、日常の一場面で実践していることに気づいた。
能力に応じ働き、必要に応じ受け取るという原理。共産主義が社会に広がらなかったのは、本が難しすぎたのではないか。また、何が必要に応じ受け取るべきものか皆が合意できなかったからではないか。
まずチラシ一枚から始めて、ビニール傘と傘立て、それとモバイルバッテリーの国有化から始めるべきだったのではないか。これなら階級の上下によらず全員が合意できる。
一度これらを国有化し、人々の必要にうまく応えることができるか、非効率にならずに製造、流通、アフターサービス、回収、廃棄などのプロセスが回るか試してみるといい。定期的に他の国の傘の値段や品質と比較して、国有化が適切に機能しているか確認しながら進めることができそうだ。
傘共産主義と名付けたい。傘・モバイルバッテリー共産主義でもいい。
今このメモを書きながら、数刻前にカレー屋で食事を取った際にカウンターの横に立てかけておいた傘を忘れたことを思い出した。
誰かの必要に応じ使われることを願っている。
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