見出し画像

花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅤ

大手出版社から独立して5年。
Mook本を中心に3冊の出版を手掛けてこれまでの集大成になるカルチャー本の校了を明日に控えていた。
「編集長、いい加減少しだけでも眠ってくださいよ。20分経ったら起こしますから」
「そんなことより特集ページのチェック終わったのかよ?」
彼の机の上に山積みにされたゲラ刷りを取ろうと立ち上がった。
何だか体がふわふわとしていう事を聞かない。
「あれ?」
足をもつらせてその場に倒れ込んだ。
目の前が真っ暗になって頬に冷たい床の感触を感じていた。

●人生の楽園

温水プールの中は嫌いじゃない。
体が温まってくると、麻痺している右腕が少しだけいう事を聞いてくれる。
神経を再生するためには筋肉や神経を適温に温めるのが効果的だ。
「今日は調子が良さそうですね」
作業療法士の彼女も最近は少しは気が楽になったのだろうか?

リハビリが始まった頃は癇癪ばかり起こしていた。
「さあ、頑張って動かしてみましょう」
「もう少し頑張りましょう」
「もう一度試してみましょう」
動かないものは動かないんだよ!
叫んでみたもののろれつは相変わらずまわらない。
唯一動く左手をリハビリ用のバーに打ち付けてのたうち回る。
「今日はこの辺で終わりにしましょう」
表情を変えずに彼女が言うと体をよじらせながら車椅子に乗せられ病室へと戻った。考えてみればこんな癇癪を起こす患者の面倒を見続ける彼女もとてつもない忍耐力の持ち主なんだろうな。
ある日、夜にトイレに向かうと帰宅しているはずの彼女が廊下で椅子に座って泣いているのを見てしまった。
声をかけようとしたけれど、僕は黙ってトイレのドアを開けて中に潜り込むと息を潜めた。
翌日から僕は癇癪を起こすのをやめた。

少し言葉を発するのが楽になって、意思の疎通ができるようになり始めると途端に僕は饒舌になった。
あの看護師の彼女が来ると好きな映画や音楽の話を捲し立てるように喋り始めた。
時々彼女が知っている映画があると、聞かれてもいないのに俳優の経歴や有名女優と離婚した顛末やいかにその映画の音楽が素晴らしいか、その時の監督が影響を受けた老獪な先輩の話を喋り続けた。
きちんと閉まらない口から泡を拭きながら喋っていると、時折彼女がたまらず微笑むのを見るのが楽しみになった。
彼女が結婚を機に看護師を辞めるのを聞いた。
彼女が僕の病室に来る最後の日、知人に頼んで小さな花束を用意して待っていたけど、彼女は病室には現れず代わりに年増の声の大きないかつい看護師がやってきた。僕は布団の中に隠し持っていた花束をそっとゴミ箱に押し込んだ。

これまで以上にリハビリを頑張って、僕は松葉杖を使って歩けるほどになった。
それでも普段は車椅子で移動していたけれど、車椅子の操作にも随分慣れてきていた。
なんとか最低限身の回りのことができるようになった頃、退院して自宅に戻った。

二階の元いた部屋は物置きになった。蔵書は必要なものだけ一階の応接に移した。
段差をなくしたり、廊下の幅を広くしたり、トイレにやお風呂に手すりをつけたりリフォームが必要だったけれど、我が家は落ち着いた。
家内には迷惑をかけるけれど、問題はこれからの生活だった。障害者手帳ももらって、毎週ヘルパーの方も来てもらい家内と一緒に風呂にも入れてもらえた。
でも自分自身のプライバシーはほとんどなくなった。
排便さえも手伝ってもらわなきゃ出来ないこともある。
それでもわがままな僕は、家内に頼んで毎週のように外出をしたがった。
車椅子での移動は家内にとっては重労働だったに違いない。
それでも、家にこもって野垂れ死ぬ自分は想像したくなかった。
「もういいや」
なんて言葉は絶対に言いたくはない。

幸運にももの書きの端くれだった僕はパソコンがあれば簡単な仕事はできた。
でも以前のように取材に飛び回ったりすることはできない。
そんな時に昔の仲間からラインが送られていきた。
「とにかく次の土曜日に編集部に顔を出してくれ」
ただそれだけ書かれていた。
かつて共に現場で戦ったライターのK氏とデザイナーのI氏
二人の連名だった。
土曜日に家内に車椅子を押してもらい電車を乗り継いで編集部に向かった。
意を決して奇跡的に生きながらえている会社の編集部に顔を出した。

事務所のドアを開けるとラインを送ってきた二人とかつての編集部のメンバーが僕を出迎えてくれた。
「おかえり!ようやく顔を出してくれましたね」
副編の彼女の声を皮切りにみんなが駆け寄ってきた。
前の雑誌社の部下や今も事務所を切り盛りしてくれている盟友。仙人のような大先輩。同じ病気で倒れたのに新しい会社を起こした友人。
「さ、ここに座ってください。編集長」
「お前さあ、休んでる場合じゃないんだよ。まずはその企画、目を通してくれ」
机の上に閉じられた企画書が置かれていた。
『不自由な生き方』(仮)

「俺たちはまだまだ伝えなきゃならないことが山積みなんだよ。さあ、お前のだろ、それ」
目の前に使い古した万年筆がピカピカに磨かれて置かれていた。
まだ震える右手でそっと掴んだ。
不思議なことに右手の震えが止まり、まるで自分の指先のように馴染んだ。
「1ヶ月後には校了するぞ」
「お前ら無茶苦茶なんだよ」
そう言い返した僕の口元が少し笑っているのに自分で気づいた。
「枯れる」なんて言葉は僕らにはない。
燃え尽きたはずの灰の中から
蕾が頭をもたげるように現れるのを感じていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?