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花は咲く Flowers bloom in your garden.Ⅴ

インドネシアで暮らし始めて三年が経った。
朝、花を飾り祈りを捧げて、海岸線を歩いた。
すっかり体は癒されて心も平安を取り戻した。
「スラマットパァギ」
近くに住むディアナと朝の挨拶を交わして部屋に戻ると荷造りを始めた。

●高架下にて

フリーライターになって三年目の頃は小さな仕事であちこちに取材で飛び歩いていた。
それでも生活は苦しく、20代半ばの女性ライターなんて社会の底辺でもがく米粒のような存在だ。
「お前なんかゴミみたいな文章しか書けないのにギャラをもらえるだけでありがたいと思え!」
あらかじめ決まっていたギャラを値切られて反論したら編集長に言われた。
仕事がなくなったら生活できなくなる私は反論できずに泣くしかなかった。

ある日、仕事の締め切りに追われている時にスマホが鳴った。
よく知っている先輩の声が聞こえた。
「何だか元気がないな、一度美味しいものでも食べに行かないか?」

そこは高架下にある小さな屋台だった。
屋台の周りは白い大きな布で囲まれていて、その幕の中に入ると急に外の世界から遮断された。
屋台のカウンターはよく磨かれた白木で、まだ30代半ばの若い板前が寿司を握っていた。
脂の乗ったトロではなく鮮やかな赤身の握りがカウンターの上に置かれた。
板さんがハケでさっと醤油を塗ってくれた。口に運ぶとふわっと新鮮な魚の香りとほのかな柑橘の香りがした。
醤油にもシャリにも仕事がしてあった。
赤身の塩気を含んだ味の膨らみを柑橘の香りが引き締める。
「どうだ、美味いだろ」
先輩が味わいにまどろんだ私の顔を覗き込む。
うなづいている私に先輩は優しく語りかけた。
「近々新しい雑誌が創刊されるんだ。俺に編集長にならないかって話がきている」
中身は重いのに話ぶりがそっけなくなっている。
「俺を手伝って欲しいんだ」
話の急展開に少し面食らっている私に畳み込むように先輩が言った。
「来月から早速プレ創刊号の編集会議があるから出てくれないか?」

雑誌は大手企業が七割を出資する食品関係の専門誌だった。
私たちは「本物をありのままに伝える」ことをテーマに雑誌を立ち上げた。
取材は「名店」「老舗」「注目株」を中心に多忙を極めた。
そして街角に埋もれた隠れた店を探して駆け回った。
もちろんあの屋台寿司を一番に取材した。

発行部数は少なかったが、再読率はどの雑誌より高かった。
次第に読者は根付き、私たちが目指す形に近づきつつあった。
三年目に私は副編集長に抜擢された。
仕事は多忙を極めたが充実した日々を送っていた。

その日、朝から取材先に立ち寄って出社すると、編集部に何だか重苦しい空気が流れていた。
「どうかしたの?」
私がデスクに座ると隣に座っているはずの先輩がいなかった。
「あれ?先輩は?出張だったっけ?」
「それがついさっき連絡があって・・亡くなられたって・・・」
・・・・・・。
言葉を失った。
「遺書が見つかったって、さっき奥様からご連絡が」
遺書?自殺?

しばらく私は使い物にならなくなった。
かろうじて出社して、みんなに指示を出していたが、
昼過ぎまでぼうっと机に座って、トイレに入ると30分出られなくなった。

「副編、顔が土気色です。お願いですから今日は帰ってください」
力を振り絞って指示書を書いて、家に帰った。
先輩はいつもオーナー会社と編集方針について意見が合わず、板挟みに合いながらも締め切りに追われていた。
普段は平気な顔をしていたけど、そうじゃなかった。

布団から起き上がれなくなって、夜中に吐いた。
医者に行ったら心療内科を受診してくださいと言われた。
「重度の鬱病です。しばらく仕事を休んでください」
休む訳になんかいかない。
抑うつ剤をもらって飲むと三日目から嘘みたいに気分が晴れ晴れした。
おかしいよ。
どうして気分が晴れ晴れなんかするんだよ?
何が起こったのか知っているのに。

メンタルを整える教室に通って、抑うつ剤をやめた。
徐々に回復に向かい出したのは二年も経ってから。
その間も編集長の代わりを「副編集長」の肩書きで続けた。

三年が経ってようやく体調も戻って、忙しく働いていた時に編集会議で発表した。
「私、この仕事を辞めようと思います。南の島で男を見つけようと思いますので探しに来ないでください」
みんなあんぐり口を開けて私のことを見ていたけれど、
「おめでとうございます」
「よかった」
「しばらくは来ないでください。来たら追い返しますから」
みんな、泣きながら笑って送り出してくれた。

明日、インドネシアから帰国する。
まずはあの高架下の屋台寿司に行こう。

「ほら、先輩帰ってきたよ。でもね今は無職なんだ。だから助けてね」
泣きながら白い幕の隙間から夜空を眺めた。
真っ暗な空一面に花びらのように星が降り注いでいた。

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