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とりあえず、私はオトナである。

大人の定義はさておき、一定年齢以上であることをそれとすれば、充分な大人です。

大人が「大人」が大人であると言える、年齢以外の現象のひとつに「不都合な現実」を生きていることだと考えます。

あかちゃんの時は、ほぼ「幻想世界」でした。そこはどうだった?

「おぎゃー」と泣けば、母親か身近な人がミルクを与えたり、おむつをかえたり、ただ、泣けばなんでもしてくれた。

周囲の人=自分の召使。自分=世界の中心

しかし、そうでないと知った時から、あたふたし始める。
そして、現実の痛みがじわじわと迫りきます。

「泣いていても、わかんないでしょ。」と言語化することを余儀なくされるなんて、まさに言葉を操るオトナへの入り口です。

それまでの、幻想的な世界から、現実味がますとまずことが増えます。

走るのが一番早かったのが、小学校になると20番に。

頭がよかったのが、中学入るとフツーに。

「私なんて、ちっぽけな」という「不都合な現実」が、立ち現れます。

そして、もっともっと大人度が増せば増すほど「不都合な現実」を生きざるをえない。

こんなはずじゃなかった。

こんな大学に、会社に入るはずじゃなかった。

こんな相手と結婚するはずじゃなかった。

ハズは外れるから、人生は想像以上の楽しみと深淵さを増すんだけど、そのあたりを分かっていないと、不都合な現実を変えようとする。

その一番手っ取り早い方法は、「都合の良い現実」に置き換えること。

不都合な現実という、複雑怪奇で、自分ではコントロール不可能な世界を前にして、どうする、自分??

風を受けながらも何とか歩く?でも、できない自分・ハズじゃないだらけの自分を、抱え持ちながら生きるのはしんどい。

一番よいのは「世界が悪い。仲間が悪い、家族が悪い、先生が悪い」

そんな「都合のよい現実」にするのが手っ取り早いです。


そう思うことは、「悪いことではない」と思うのです。

現実、そういうことは、ままあります。いや、多くあるかもしれない。

しかし、そのままの「都合の良い」世界と現実は、いつまで続けられるのでしょうか。

もしそこで仲間が見つかったとしても、「なんだか寂しい」×「寂しい」の「所在なさ」が募るばかりかもしれません。

誰にも自分は分かってもらえない。だからこそ、唯一無二の自分なのかもしれない。だからこそ「孤独」を感じるのでしょう。

その孤独と、居場所のなさと共に、自在に歩く覚悟をする。

そうすると、誰にも分ってもらえないけど「分かりたいと思う人」はいる、という現実に気づくかもしれません。

もしかしたら、もうすぐ隣にいるかも。

もしかしたら、明日出会うかも知れない。

そうすれば、現実がいつか「都合よく」はならずとも、

不都合さが多少は軽くなる「ちょっとマシな現実」をもたらしてくれるんだと、思います。

きっと大丈夫!

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無題


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