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「権威」を感じる対象に対して健全な疑いを持ってみること

ヘラクレイトスという哲学者の断片集を少しずつ読み、語り合う(考察?妄想?をめぐらす?)という読書会を毎週行っています。

朝6時半からやっているため、時には寝過ごすこともあるのですが久しぶりに参加できた時に感じたこと。

断片の一文に、ヘシオドスという人物が出てきました。

ヘシオドスというのは、古代ギリシアの叙事詩人で、紀元前700年頃に活動していたとされています。『神統記』『仕事の日々』という作品を残しており、この2作はほとんど完全な形で現存しているとのこと。

ヘラクレイトスの断片によれば、ヘシオドスというのは、当時、大多数の人にとっての教師のような存在だったそう。言い換えれば、大多数の人の認識に影響を与えたといえそう。

そんなヘシオドスが行ったことは、書籍『ソクラテス以前の哲学者』によれば、『神統記』において、錯綜を極める神々の群れを体系的に整え、秩序化したとのこと。

宇宙の生成について語られているのですが、ヘシオドスの宇宙にとって宇宙世界とは、空間的にも時間的にも秩序立てられた、秩序世界であり、この秩序をもたらした真の原因者をゼウスとする立場を取っています。

私はこのあたりはよく知らなかったのですが、ざっくりいうとゼウス的世界観とも呼べるような、それまでとはまた異なった世界観・宇宙観が存在していたところ、ヘシオドスの『神統記』によって、俯瞰してみると1つの世界観・宇宙観に物の見方が統一されたといえるようです。

ゼウス的世界観が何なのか?まだ読み込めていませんが、私にとって興味深かったのは、この書物によってゼウスに権威が付与された、ということです。

『神統記』の中では、ゼウスが支配する世界の中で、ーカオス、天、地、夜、死、眠りーといったことに対して、ふさわしい力と位置を与えていく様子も描かれています。

万物にそのようなものを与えられるなんて、ゼウスはいかに偉大な存在なのでしょうか。

多くの人がそのように認識すればするほど、ゼウスに縁のある人?場所?も同じように権威を持つことができますね。ブランディングとも言えそうです。

日本でいえば、『日本書紀』という書物には、藤原氏が編纂しましたが、藤原氏を権威づけるような情報操作が入っていたという話を聴いたことがありますが、似たものを感じます。

もっと身近な例でいえば、子どもの頃に学ぶ歴史の教科書。ある種、この教科書が絶対的に正しいかのような教育を受けます。(教わる先生によると思いますが)その結果、そこに権威づけられて記述されている人・国に対して、権威を感じるようになっていき、その後、その認識が大きく変わる機会が少ないことも言えますね。

それでも、インターネットが広がっている昨今では、過去の自分の認識を見直す機会が増えていると感じています。

「権威とは、付与する人がいるから生まれるもの」という捉え方がありますが、このことに自覚的になり、当然のように権威があるように思えることでさえも、自身で本当にそうか?を確かめてみる、「付与する」を自ら選んでいく、そういった姿勢がこれからますます重要になっているように思います。


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