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『万物の黎明』の中では『サピエンス全史』著者についてどのように触れられているのか。


はじめに

2月から仲間たちと読み始めている大著『万物の黎明』

この書籍の意図は著者が以下のように書いています。

本書で、著者たちは、人類のあたらしい歴史を提示するだけでなく、読者をあたらしい歴史学に招待したいと考えている。わたしたちの祖先に 未熟ではなく 完全なる人間性を復権させる、そのような歴史学である。

p48

本書の試みは、端的に、あたらしい世界史の基礎を築くことにある。

p48

ルソーのようなヨーロッパの思想家からは完全に袂を分かち、むしろ、かれらにインスピレーションを与えた先住民の思想家に由来をおくパースペクティブを検討しよう

p49

言い換えれば、これまでの歴史とされている内容においては、先住民は軽んじられてきたとのこと。

今回は、書籍の中で著書がビッグヒストリー系の書籍での世界的なベストセラー(国内150万部以上、全世界で2500万部越え)『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリについて書かれていた箇所について思ったことを書きます。

ハラリについての話題に入る前に、以下の表現がありました。

現代の高度に洗練された思想家であっても、狩猟採集民の「集団」を現存の同胞[人類]と並べるよりも、チンパンジーやヒヒと並べたほうがしっくりくるとみなしている

著者のハラリの主張への同意点

まず、著者はハラリの主張の以下について同意しています。

ハラリは、初期の人類史にかんするわれわれの知識が非常にかぎられていること、社会の組織法は場所によって大幅に異なるであろうこと、このようなまったく妥当な観察から出発している。たしかに、かれは事態を誇張している(ハラリは氷河期にかんしてすらわれわれは実際なにも知らないと述べている)ものの、基本的な指摘はよく理解できる。

著者が書籍『サピエンス全史』から引用した一文はこちら。

『狩猟採集民の社会政治的世界も、私たちがほとんど何も知らない領域だ。すでに説明したように、学者たちは、私有財産や核家族、一夫一婦制の関係が存在したかどうかといった基本的な事柄についてさえ、意見の一致を見ていない。集団ごとに異なる構造があった可能性が高い。このうえなく意地の悪いチンパンジーの集団並みに階層的で、緊張していて、暴力的なものもあれば、ボノボの群れのように呑気で、平和で、好色なものもあっただろう』

著者は、ハラリの発言を「つまり、農耕がはじまるまで、だれもがバンドで生活していたのみならず、そのバンドは基本的に猿のような性格をもっていたというわけである」と要約しています。

著者のハラリの文章に対する批評

さらに、「このまとめ方がフェアではないようにみえるなら、こう考えてほしい」とかき、次のように続けています。

ここで厄介きわまりない暴走族のように緊張していて、暴力的」であるとも「ヒッピーのコミューンのように呑気で、平和で、好色」と書くこともむずかしくはなかったはずではないか。ある人間集団を比較するとき、ふつうは別の人間集団と比較しないだろうか。

なぜハラリは暴走族ではなくチンパンジーを選んだのだろうか?暴走族はじぶんの生き方をじぶんで選択しているのであって、この点で[そんな自覚的選択をしないという点で]、初期人類はチンパンジーに近い。このように考えられている印象はぬぐいがたい。

ハラリも、つまるところ他の多くの人たちと同様、初期人類と類人猿とを比較することを選んでいる

私が気づかされたこと

サピエンス全史を読んだ当時は気づかなかったのですが、疑問を持たずにハラリが初期人類と霊長類の比較を受け入れているということは、無意識に初期人類が私たちとは違う種族であり、現代でいう霊長類に近い(言い換えれば、文明化されていない存在)という区別(ある意味では差別)を暗黙の了解にしていると言える、と思ったのです。

「いや、初期人類をそのように見なすことの何が悪いの?」

という問いが浮かぶ人もいるかもしれません。端的にいうと、『万物の黎明』自体が、初期人類の不当な評価を適切に取り戻すといった意図を持っています。しかし、現時点ではこのように見なすことの弊害については私も書籍を読み込むことで納得がいく回答を見つけたい段階なので言及しません。

ただ、1つ大切なことは良い悪いという以前に「そもそも初期人類の捉え方が事実に即していない」ということが書かれています。

いくつか紹介します。

初期人類に対する誤解

過去(19世紀末〜20世紀初頭のヨーロッパやアメリカにおいて)

「未開」の人びとは、政治的自己意識をもつことができないだけでなく、個人レベルでは十分な意識的思考ーすくなくともその名に値するような意識的思考ーをおこなうこともできない

「野蛮人」や「未開人」に分類される人びとは「前論理的心性」で動いているとか神話的夢想世界を生きていると主張したのである。最善でも、伝統の束縛にがんじがらめの精神なき順応主義者、最悪だと、十全なる意識をともなった批判的思考のいっさいをできない、そのような人間なのだ、と。

今日、

学者たちはいまだに経済発展の初期段階にある人びと、とりわけ「平等主義的」と特徴づけられる人びとが、文字通りすべて同一であり、なんらかの集団思考のなかで生きているかのように論じている。

つまり、人間の差異がいかなる形態であらわれようとも(たとえばそれぞれ異なった多様な「バンド」)、それは類人猿のバンドがそれぞれ異なっているようなものにすぎない。政治的自己意識や、いまでいう「予見的政治」のようなものなど、存在しようはずもない、と。

考古学が指し示しているもの

一方で、考古学は以下のような事実を指し示していると言います。

最終氷期の季節性の高い環境では、わたしたちの遠い祖先が、イヌイットやナンビクワラ、クロウ族のように行動していたことを示唆する考古学的証拠がどんどん積み上がっている。かれらは、別種の社会的組織法のあいだを往復し、モニュメントを建造してはふたたび解体し、ある時期に権威主義的建造物の構築を許しては別の時期にはそれを解体していた。それらすべてが、いずれの社会秩序もけっして固定したものでも不変的なものでもない、という了解のうえに成立しているようにもみえる。同じ個人が、あるときはバンド、あるときは部族、またあるときは、いま国家の特性とされているもののすくなくとも一部を備えるなにかのなかで、生活を経験経験していたようだ。

上記でいう最終氷期とは、ウィキペディア情報によるとおよそ7万年前にはじまって1万年前に終わった一番新しい氷期のことだそうです。書籍の中では約4万年から1万年前のあいだにみられる証拠が複数紹介されていました。

ハラリのいう「狩猟採集民の社会政治的世界」が具体的には何年頃を指しているのかは、『サピエンス全史』を読み直さないと全く覚えていないので、省きますが、ここで大切なことは、

ボノボやチンパンジーら類人猿というイメージから想起する生活と、実際の考古学が指し示している当時の人類の生活は、次元が違うということです。

詳しくは紹介できませんが、次元が違うどころか、現代に生きる私たちの閉塞感を生み出している社会構造を克服する仕組みを取り入れていた、むしろ私たちよりも先進的と言える側面があると言えるのです。

『万物の黎明』によれば、ハラリ以外のビッグヒストリー系のベストセラー作家である、ジャレッドダイヤモンドやスティーブンピンカーといった人物も、初期人類を不当に劣った対象として表現していると、強く批評していました。

さいごに

私が気をつけないといけないと思ったのは、学生の頃に学んだ歴史認識のままで止まってしまいがちだということ。

本当は、当時よりも、テクノロジーの進化に伴って考古学の新たな発見が随時生まれており、新たな歴史認識が生まれていることが『万物の黎明』では多数紹介されています。

このことが現代に、私たちにどのような影響を及ぼすのか、このあたりについてはまだまだ勉強の余地がありますので、引き続き探究していきたいです。

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