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「お金がいらない世界」「お金が消えた世界」に「ある(存在する)もの」は何か?考えてみる


はじめに

最近、通称「タダの箱庭」本をつかった読書会を行なっています。

このプロジェクトでは、行動経済学の用語である「市場規範」と「社会規範」という言葉に象徴される、全くルールが異なる2つの世界を私たちは生きている一方で、この2つのルールが全く異なる世界をごちゃ混ぜにしてしまっていると言います。

・見返りを求めるコミュニケーション<市場規範>
「お金あげるから働いて!」「ご飯作ったんだから食器くらい洗ってよね!」
※この世界では、金銭的インセンティブや損得勘定を通して交流しています。

・見返りを求めないコミュニケーション<社会規範>
「困ってることはない?」「ご飯食べたら、お風呂も用意してるからね!」
※この世界では、ギブ&テイクはなく親切心や贈与を通して交流しています。

こちらの公式プレゼン資料を引用

その結果として日常のあらゆるところで不調和が起こっていて、だからこそ私たちがこの2つの世界(色眼鏡)を通して世界と関わっているということをしっかり、理解し扱うことができれば、関係性が改善され、人生という名の物語のクオリティをあげることができるはず、、、とのこと。

また、現代社会では社会規範を味わったり、学ぶ領域が少ない。ふたつの世界を認識できても選択がしづらいという意味で不自由とのことで、箱庭では社会規範的世界を提供して、みんなが利他的な自分や社会を表現して、味わえる環境を作ろうとしているとのこと。

ごちゃ混ぜのダブルワールドで、どうすれば自由に生きられるか?お金も幸せも手に入れる方法は?その手がかりを探索するのが、仮想未来世界を舞台にした社会実験"箱庭"だ、そうです。

上記、いずれもこちらの公式プレゼン資料を引用・参照

このプロジェクトはクラファンを募集した際に「お金が消えた世界をつくる!壮大な社会実験に参加したい1,000人の仲間を募集中!」というタイトルがついていました。「お金が消えた世界」とはとてもキャッチーですが、実際のところ、お金がない世界という言葉のニュアンスは、お金の心配をしなくていい世界であって、お金の否定をしているわけではない、とのこと。

お金がいらない世界について思うこと

前置きが長くなりましたが、今回はこの「お金が消えた世界」違う言い方をすれば「お金がいらない世界」について思うことについて少し書きたいと思います。

お金が消えた世界、お金がいらない世界といった時、頭に浮かぶのはそれぞれの世界にはお金がない代わりに何が「ある」のか?という問いです。

お金をツールだとすると、人間の何かしらの必要を満たすために存在しているといえます。

人間にとっての満たすべき特定の必要がなくなれば、ツールそのものもなくなると思いますが、特定の必要が残り続ける限りは、形を変えてツールは残り続けるように思うのです。

それこそ、過去に主流だった手紙がEメール、ひいてはLINEなどのアプリに取ってかわられたように。これらのツールが進化していても変わらず満たしている人間の必要が何か?はここでは考えませんが、お金にも同じような構造で捉えることができると思うのです。

「お金とは何か?」今回浮かんだ答え

また、このことを考える上では、「お金とは何か?」という問いにどんな答えを持っているか、が表裏一体となっていますね。

この問いについて今改めて考えてみて浮かんだことを書きます。

それは、「人類の人生経験の最大化に対して最も強力なサポートとなるツール」というものでした。

言い換えると、「人生経験を最大化したい」という人間の必要を満たすツールの中でもトップクラスに効果的なもの、といえます。

この答えが浮かんできた背景にはおそらく2つの過去の探究があります。

数えるというテクノロジーは何のために生まれたのか?

1つ目は、以前お金・経済について探究した際になぜか行き着いた数・数学の歴史について探ったときのもの。

詳しくはこちらの記事に書いたので読んでもらいたいのですが、「数えるというテクノロジーは何のために生まれたのか?」という問いについて浮かんだ答えば、「所有」を認識するため、でした。

そして、その意味において数学とは、人間の持つ「所有意識」という機能を拡張したものではないか?という仮説を持ったのです。

この所有とは言い換えれば、「経験する」ということでもあると捉えています。

私たちは「お金がないと◯◯できない=実現する力が私にはない」という思い込みを持っている

そしてもう1つは、ソースプリンシプルやマネーワークの提唱者でありマネーの探究を長らく続けているピーターカーニックの考察に触れて浮かんだことでした。

こちらも詳しくはこちらに書いています。

この時に掴んだのは、

私たちは本来は「何かを実現するという力」を持っているが、システムに適応して生活してくる中で「お金が何かを実現する力を持っている」という思い込みとしてすり替わってしまった。その結果として「お金がないと◯◯できない=実現する力が私にはない」という思い込みを多くの人が持ってしまっているということです。

そして、
そこから転じて、お金は、誰もが自身の持つ創造する力を「取り戻す」ことによって不要になっていく、言い換えれば、「お金のいらない世界」「誰もが自身の持つ創造する力を信じることができている状態」は表裏一体なのではないか?ということを仮説として持ったのです。

上記2つの考察がどう結びついて今回のお金とは?に至ったのかはよくわかりませんが、何となくそうなんじゃないかと思っています(だからなんだw)

お金の代わりとなるツールを見つけるための問いとは?

「人生経験を最大化したい」という人間の必要を満たすツールの中でもトップクラスに効果的なものであるお金が不要になるには、もっと効果的なツールが生み出される必要がありますね。

となると、問うべきは「人生経験を最大化したいという人間の必要を最も効果的に満たすために必要なものとは?」ということでしょうか。

ここまで書いてみて浮かんだのは、「経験を手にする機会は平等なのか?」といったテーマです。

ちなみに、人生経験というのはポジティブなことだけを指していないというのがミソで、全方位の経験を指していると捉えています。

とうなると、今は地球に暮らす全員平等には「全方位の人生経験を十全に味わう機会」を与えられておらず、特定のポジティブな経験が特定の人に限られている、と言えそうです。

自然の摂理からすれば、それは不自然な状態に思えますが、この摂理がこのテーマにもちゃんと適応され、裏返るような状況が起こるかどうかは、これからの歴史が証明してくれるでしょう。

さいごに

最後は尻すぼみになってしまいましたが、大事な問いをいくつか見つけることができたように思います。

また、お金について問う時には、それ単体ではなく、お金を取り巻くエコシステム全体を洞察していく必要があるのだと改めて思いましたし、そのエコシステム全体が「人生経験を最大化したいという人間の必要を最も効果的に満たすために必要なものとは?」に応えるツールであるのだなとも思いました。

そして、この問いに対する1つのモデルを提示しているのが、書籍「ティール組織」で紹介されている会社組織のようにも思えてきました。

隣接してながら、それぞれで探究しているテーマが有機的につながってきた気がして、それも面白い。

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