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スウェーデンの大学生の話から感じた日本の学校教育との違いについて

はじめに

昨年末、日本財団の「18歳意識調査」第20回テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査)が発表されました。

話題になったので知っている人もいるかもしれません。

その結果は以下の通りです。(より詳細なデータは上記のリンク先からPDFでご覧いただけます。)

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スウェーデンの大学で働く日本人の先生がこのデータを見て日本への危機感を持ったことがきっかけで、
 
日本人たちとスウェーデンの学生たちなどがオンラインで意見交換を行う会が先月開催されました。
 
私は日本側から声をかけてもらい、参加しました。
 
会の中では色々なトピックがあったのですが今回は私が特に興味があった「政治教育」と「授業の進め方」などを取り上げて紹介します。
 
スウェーデン人で札幌への留学経験がある方が経験談を話してくれました。
1年間の留学経験だったそうですが、日本語が非常にうまかったです。

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彼の意見が一番印象的だったので意見の紹介と、私の経験について書いていきます。
 
ただし、私の経験は学生時代が10年以上前なので最低限の記憶になっている可能性が高いことをはじめにお断りしておきます。

エドワードさんの話
・彼の覚えている限り、一番早かった政治の授業は小学校5年生の時。7つの政党の名前とそれぞれのマーク、党首の名前を調べるという内容だった。

・中学校からは社会的に問題になっているトピック、地球温暖化や性差別などについて積極的に話し合う機会が増えた。

・高校での社会学の授業は、様々なトピックについて議論するものだった。まず、トピックについて調べてから、グループに分かれ、議論を始める形。学生たちはグループ内で話し合うが、その時、全員が発言をしないといけなかった。

・上記は、主に学生たちの自由に任せる議論だったが、クラス全体が一つのトピックに対し、ある意見に偏ってしまった場合、教師は一部の学生たちを指名し、他の意見も調べさせて、様々な主張が聞けるようにしていた。

上記の話では、「学校教育での政治の学び方」と「授業の進め方・先生の役割」という2つの観点があるので分けて書きます。

経験談:学校教育での政治の学び方

私は、東北のとある市立小・中、公立高で学校教育を受けました。普段から勉強するのではなく、テスト前に勉強しているタイプでした。
 
・政治の勉強について覚えている一番古い記憶は高校の時に「政治・経済」というテーマの教科書があったことです。(小中学校で政治について学んだ記憶はありません。)しかし、どんな授業だったかは覚えていません。教科書全てというよりは内容をかいつまんで学んだ気がします。また、授業も典型的な暗記型だったと思います。
 
・それ以降で政治に関する情報に触れたのは、大学の学部が地域と行政というジャンルでもあったため、大学1年生か2年生の頃に民法・刑法などを学んだ時です。しかし、これは実際の法律について学ぶものであり、堅苦しい・面白くない・早く終わって欲しいという印象でした。その後、自分が選挙権を持ったタイミングでも特に選挙のことを意識することはなく、投票もしばらく行きませんでした。
 
・学生時代に政治の情報について触れる機会と言えばテレビのニュースくらいだったと思います。だからこそ、政治や政治家についてはニュースなどで受けた印象を深く考えずそのまま受け取っていた気がします。小中高大の友人と政治の話はしなかったですし、そこに疑問を持つこともありませんでした。
 
私は就活で夢が見つかってから、大学には夢を語る場がないと感じたので、学生団体を立ち上げました。
 
そうするくらいだったので、政治の話はもちろんのことながら、夢ややりたいことの話をすることも当たり前ではなかったことを覚えています。
(当時の自分の視野が狭かったので自分のアンテナには引っかかりませんでしたが、そういう話や活動をしていた場所もあったと思います。)
 

(余談その1)社会人になってからある時から、投票はしようという意識になり、行動しましたが、そのきっかけは覚えていません。2010年頃、私が25歳の時にFacebookに初めて登録し、それからは色んな情報を目にする機会が増えました。その中で、投票に行くと投稿している人がいたので、自分も感化されたのかもしれません。しかし、政治についてのイベントに参加したり、勉強しようと思うことはありませんでした。
 
一度だけあったのは、同じく25歳くらいの時にイベントで知り合った人から突然電話がかかってきて、「ある政党に投票してくれないか」と言われたことでした。
 
その時の自分はそんな電話は初めてでビックリしたことと、未知のものへの恐れ?からか断ったことを覚えています。それ以来、連絡はきませんでした。
 
それ以外に政治について触れる機会となったのはメディアのニュース、SNSなどでの投稿やコメントでした。
 
しかし、いずれもネガティブなところが多く、「この議員、政党がいいね!よくやってるね」といった前向きな話を目にする機会は少なかったです。
 
また、私のように自ら政治のことを知ろうとしなくても情報が入ってくる機会は数回ありました。
 
(1)音楽と演説をミックスさせた選挙フェス
2016年に東京都選挙区から出馬した音楽家の三宅洋平さんという方がいます。彼は、街頭演説に歌などをミックスさせた選挙フェスというものを行い話題になりました。私は演説動画は少しみましたが、街頭演説にいったりはしませんでした。
 
(2)SEALDs
2015年5月から2016年8月まで活動していた日本の学生により結成された政治団体。ニュースなどで話題になったのは知っていますが、遠い世界のこと、という印象を持っていました。
 
(余談その2)なぜ知ろうとしてこなかったのか?
一番の理由は、本気じゃなかったからでしょう。そして、優先順位が低かったからでしょう。
 
また、政治は複雑で難しい、面倒臭いもの、ロクでもないもの、という印象を勝手に持っていたのもありました。

それに、政治の話は感情的、決めつけて話している人が多い印象があり、そういう人や雰囲気が嫌で距離を取っていたのもあります。一度だけ池袋にある、政治について考えを持つ人が集まる小さな居酒屋に行ったことがありました。そこでは中年以上の方たちがまさに上記のように話しており、居心地が悪くなったことを覚えています。とてもじゃありませんが、気軽に質問ができる雰囲気ではありませんでした。
 
実際に投票する際はマニフェストを読んだ上で、いいなと思った人を選んでいますが、その場しのぎの投票だと感じてきました。
 
本当は、日本の将来はこれがいい、そのために効果的な政党はここで一番応援したい議員はこの人、といった理想の選び方をしたいと思っていました。
 
しかし、その選び方をするためのインプットが足りない。でもそのための時間が足りない(優先度が低い)というサイクルが続き、とりあえず投票するだけが続いています。
 
また、インプットについても、主に以下の3つがありますが最近まで全くしてきませんでした。

●本を通じてのインプット
教科書的なものを読んでもつまらなくて続かないし、
かといって色んな本もたくさん種類があって選べなかったり、
偏った批判本は嫌だしと、やることが多く感じてしまい、
そもそも優先順位も低かった関係もあり、先延ばしにし続けてきました。
 
●イベントに参加する
とりあえず演説とか聞いてみよう、と行動しませんでした。
演説に行っている友人をFacebookで見たりしていましたが、
自分も行こうと思いませんでした。
 
政治に関心がある自分を知られることがどこか恥ずかしいと思ったり、
人にどう思われるんだろうということを気にしたのかも。
 
●誰かに聴く
これもしてこなかったですね。
 
友人と理想の未来の話をすることはあっても、
政治はどうかという話は全然してきませんでした。
 
最近になってやっと政治のこと学んでると人に
言い始めたので、聴いてみようと思ってきた次第です。

経験談:授業の進め方、先生の役割の違いについて

小中高ではスウェーデンのように「自分で調べて、自分の考えをまとめる」
といった授業はほとんどなかったような記憶があります。
 
あるいは、当時は自分の意見を求められることが面倒臭くて嫌だった記憶があるので忘れているだけかもしれません。
 
自分で調べて、自分の考えをまとめた機会で今でも覚えているのは、大学3、4年生の時に所属していたゼミで卒論に取り組んだ時のことでした。
 
その卒論では、テーマは全くの自由だったので、無から自分が何に興味があるかを考えなければならず、大変だったことを覚えていますが、この時の経験は今でも活きています。
 
また、1・2年生のときにもゼミに入っており、その時はゼミのテーマに即して調べた内容を発表していたと思いますが、自分の意欲が低かったためか、どんな状況だったか記憶にないです。
 
おそらく、適当に調べてまとめてそれでよしとしていた気がします。
 
また、先生が「自分の意見を持とう!」と言ってくれていたかについてですが上記の大学3、4年次のゼミの先生以外にはいなかった印象です。(忘れているだけだと思いますが)
 
また、その先生であっても、学生同士のディスカッションを促すような関わりをしてくれた記憶はありませんでした。
 
実際は私が覚えていないところで機会はたくさんあったのではないか?と思いますが、このように振り返ってみると、私が受けてきた学校教育では、自分の意見を持つことや言葉にすることよりも、
 
学生は静かに大人しく授業を過ごして、先生が滞りなく内容を進めていくことの方に重きが置かれていたように思えます。

このテーマに関連して、エドワードさんは以下のようなことも話していました。

・スウェーデンでは、恐れず自分の意見を話すことを高く買う。その意見が正しいと思われなくとも、勇気を出して述べる姿勢そのものが望ましいと考える人が多いと思う。
 
・日本の文化では、逆に自分を目立たないようにし、また、自分の考えを言葉にしないほうが望ましいと思われる美徳があるような印象を受けた。

私は彼の日本の文化の見立てはまさにその通りだなと思いました。
 
では、なぜそうなのか?の理由を考えてみると、
 
自分の意見を持つ、勇気を出して述べることが推奨される、賞賛されるというよりもそうすることは変に目立ってしまって、恥ずかしいとか嘲笑の対象にされると思うような環境が多かったからではないでしょうか。
 
私の通っていた小学校高学年、中学校あたりではスポーツができる人、声や体が大きい人、不良っぽい人が場に影響力を持っていました。
 
この人たちが重視していることがカッコいいという風潮があるため、自分の意見を持つ人、学校の活動に積極的な人は「お前、マジメだなぁ」というように揶揄の対象になるイメージが強かった記憶があります。
 
一方で、先生はどうだったのか?というと、恐れず意見を言う、自分の意見を持つことを推奨する声がけや雰囲気づくりをできていなかったように思います。

経験談:私が自分の意見を持ち、表現できるようになった経緯

その後、私は自分の人生への主体性や夢を持つに至るのですが、そのきっかけは大学生活や授業ではなく、就職活動でした。
 
就活を通じて、自分のやりたいことが見つかったことで、勉強が自分に関係があること、意味があることだと思えて楽しくなったのです。
 
それまで、自ら本を読むこともありませんでしたが、どんどん本を買って読むようになりました。
 
「大学の勉強がつまらないのではなく、ビジョン・夢がないからつまらなかったのか」と思ったことを覚えています。
 
夢が見つかった私は「就活は一世一代の大勝負だ」とノートに書いたり、「意識高いねとか言うけど、自分の人生なんだから当たり前だろ」と言うくらい燃えていました 笑
  
一方で、同じ大学では自分と同じような熱量の学生に出会うことはなく「本当にこういう自分でいいのかな?」という不安もありました。
 
この不安を変えてくれたのは、ある会社の人事マネジャーの人と、ある地方の商工会議所の人との出会いです。就活イベントでその人事マネジャーの人がスピーチをした時に、自分なりに掘り下げた価値観と似たことを話していました。私はその時に、「自分のように思っていいんだな!」と自分を信じる後押しをしてもらえたのです。この人とは就活中に何度もやりとりをし、応援していただいていました。
 
また、ある人の紹介で知り合えた商工会議所の人は私の夢を聴いてくれて、「いいね!きみ、最高だね!」と褒めて応援してくれたのです。
 
私は、この2人の大人に受容、承認してもらえたおかげで自分の意見を持つこと、伝えることに積極的に取り組むようになれて、その後も、自分を信じて進むことができました。
 
今でも恩人だと感謝しています。
 
このように、大学時代に自分の意見を持ち、表現できるようになった私ですが、その意見を誰かと議論してさらに洗練していくといったプロセスを学ぶことはできませんでした。
 
その理由は、
・当時の私がせっかく考えついた主観を絶対視しがちで疑いたくないと思っていた
・人の意見をじっくり聞くよりも自分の意見を通したいという自我が強かった。
・他人との違いを認め、理解しよう、受け入れようという意識がなかった
・批評を批判と受け止めてしまう傾向があり、そういう場を避けていた
ことが挙げられます。

まとめ

エドワードさんや他の方の話と私の経験を比較すると、学習する内容と授業スタイル、先生の姿勢が明らかに違うと思えます。

スウェーデン
・自分の意見を持つ力、表現する力、人と議論する力が育まれている
・勉強が社会と分断されていない
・先生が生徒を引き出す、場の偏りをなくすといったファシリテーターの役割を担う
 
日本
・暗記する力、ミスを見つける力、集団として行動する力、ルールを守る力が育まれている
・勉強が社会と分断されている
・先生は情報を伝える、正誤を判断するといった役割を担う

日本の学校教育ではメーカーで集団でルールを守り、正確に働ける人材を輩出することに重きが置かれてきたと聞いたことがありますが、まさにそうなのかもと思わされます。
 
正直、それではAIに代替される能力しか開発できていない人材ばかりが輩出されてしまうため、時代の流れに全く即していません。
 
社会で本当に必要とされる力を伸ばせない、むしろ足を引っ張る力を育んできた学校教育の弊害を取り除くための社会人教育が必要となっている。
 
そう思うと、無駄が多いなぁと感じますよね。
 
だからこそ、学校教育のあり方も変化していたり、北欧の教育に常々注目が集まっているのでしょう。
 
こう見ていくと「だから日本の教育は!」としてしまいがちですがそのように単純化してしまうことは意味をなさないと思っています。
 
日本ですでに先進的に取り組んでいる学校もありますし、そもそも人口など前提条件も違うのですから。
 
だからこそ、変に一般化するのではなく個別具体ケースに対して、
・どんな要因がその結果を生み出しているのか。
・そこにはどんな構造・関係性があるのか。
といった、要素分解・振り返りを行いそこから改善に繋げていくことが重要でしょう。

さいごに

昨年末から先延ばしにしてきた政治について学び始めています。
 
なぜ今は勉強しているのか。それは、シンプルに言うと自己満足のためだと思っています。政治について自分の考えを持たないまま生きているのが嫌だということです。そういう意味では、エドワードさんの言う「自分の権利のため」という意識はまだまだ低いです。このあたりの認識の違いもとても興味深いので引き続き、掘り下げていきたいと思います。
 


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