テクノロジーの専門性と大衆性の共存

近代化は専門分化の過程とも言われるよう、高度で複雑な社会を維持するために、高度で複雑なテクノロジーが次々と生み出された時代である。

専門分化が進んだ世界では、商品の利用者と生産者の乖離が生まれる。利用者は、商品の仕組みを理解することなく、生産者が取り決めた仕様や機能の範囲でサービスを享受する存在となる。

自ら使い勝手よく改良したり、壊れた箇所を修理したり、といったことは基本的になされない。それらも全てお金を払って買い取るサービスとなる。

これはどんなことを意味するか。

利用者が商品やテクノロジーを使うのではなく、商品やテクノロジーに使われることを意味する。

そして使う側に回れるのは一部の専門性を持った人々や権力のみで、極端に高度化した社会では、多くの人は使われる立場に押し込められてしまう。

この構造は、企業の利潤追求という目的にとっては都合がいい。とにかく魅力的な商品を生み出し、中身をブラックボックス化することは、その価値に依存した消費者から次々とお金を吸い上げることを容易にさせるからだ。

これはつまり、私たちの生活を、専門性という名の権力に差し出すことを意味する。

よくわからないものを使わされ、依存させられる。これが続くと、人間性が失われていく。見えない力に操作されているような不安に苛まれる。

テクノロジーは本来、私たちの生活を豊かにするためにあるはずだ。

このときに重要な視点となるのが、「大衆的なテクノロジー」である。

誰もが理解し、管理できるテクノロジーによって、生活の主たる部分は成り立つべきである。それは、生活を自らの手の中に戻し、人間性を回復する行為でもある。

一方で、現代社会において、専門性の高いテクノロジーを全く排除した生活というのは、現実的ではない。要は、両者のハイブリッドが求められる。

例えば、数百人程度の地域単位で共同管理する下水処理場を考えてみる。パーツ点数が少なく構造や仕組みが簡易で、規模も小さい。原始的な香りさえある。必然と、これを動かす動力や制御システムも簡便となる。処理フローが明確なので、機械の運転維持管理は利用者である近隣住民が担える。少しくらいの故障であれば、解体して原因を探ることも可能だ。これは比較的大衆性の高いテクノロジーと言える。

とはいえ、住民が自らの本業の傍ら運転管理業務を担うことはコスト的に難しいかもしれない。このとき登場するのが、専門性の高いテクノロジーである。例えば、平時は自動運転により、人の介入は不要となる。異変の予兆を察知した際は、自宅にいる住民にアラートを飛ばし、手の空いているものが現場に駆け付けられるようにする。その場で対処できるものは対処し、不可能と判断すれば専門家に依頼する。

このように、専門性と大衆性を組み合わせることで、現実に即した形で大衆的なテクノロジーを実装することができるのではないか。

現代文明の効率性や利便性は享受しつつも、人間の知恵や工夫、創造力を活かすテクノロジーに足元を固めることで、生きることの喜びを感じられる社会になればいいなと思う。


~追記~

こう考えると、テクノロジーに対して最低限の知識とスキルがあれば心豊かに生きられるようにも思える。そうすると、本当に専門性は必要なのだろうか。

恐らく、どんなにテクノロジーが大衆化したとしても、専門的なテクノロジーがそれを下支えするという構造は変わらない気がする。原始生活に戻っては現在の人口を扶養できないし、経済活動を維持しながらローテクに移行するには効率性の高い専門的なテクノロジーが必要になりそう。

何かローテクな技術で運営できる製品や装置をつくるとする。その素材、部品、材料はどこからくるのか?もちろん物によっては現地調達・現地加工可能なものもあるだろうが、限られる。鉄鋼や半導体、精密部品などはどうしてもその製造に専門性が必要となる。こういった素材や部品を極力使用しない、という選択肢もあるかもしれないが、恐らく、現代の生活レベルを維持しながらということを考えると、コストに見合わない。生産コストが高すぎて、今度は労働に縛られるようになる。

こう考えると、専門的なテクノロジーは「ローテクを効率性で下支えすること」を大きな役割として担いそうだ。一見矛盾しているようだけど、ローテクは必ずしも効率性を犠牲にするものではないと思う。

専門的なテクノロジーは黒子として、存在していく。



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