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【わたしはどこへ行くのか? - ラカンと禅の対話】(2018/06/03)

小林芳樹さん(ラカン派精神分析家、国立病院機構東尾張病院医師)と、藤田一照さん(曹洞宗僧侶)との対話イベント、

「わたしはどこへ行くのか? - ラカンと禅の対話」

に参加してきました(2018年6月3日@Waves)。

この催しは、小林先生が東京・西麻布のイベントスペース"Waves"(…小林先生は実際にここで精神分析のセッションを行っているとのこと)を舞台に、20世紀フランスの思想家であり精神分析医、ジャック・ラカンの思想、精神分析実践とその理論について、公開での精神分析セッションや、ラカンの精神分析の現場のドキュメントを小林先生が編訳した、

『ラカン 患者との対話』(人文書院刊)

を小林先生ご自身がピアノ演奏と共に朗読する…など様々な切り口で迫りながら、「わたしという問題」への一つの処方箋の提供を試みる4回シリーズの講座として行われました。

その最終第4回として、ラカンの晩年の思想が東洋の禅仏教と非常に接近しているというところから、小林先生が禅のお坊さんとの対話を希望され、一照さんに白羽の矢が立って、実現したものです。

小林先生と一照さん各々の自己紹介で、小林先生は…

「この"Waves"という不思議な空間でラカンについての講座を行う…というと、何だかアヤシイと思われる人もいるかもしれませんが、精神分析というのは病気を治すという"人生上の問題の解決"というよりも、"人生という問題そのもの"を取り扱うもので、その意味では私がいま勤務している国立病院という"システム"の対極にあるものかもしれない。
この講座を通じて、抽象的でマジックのようなものではない精神分析の論理性が浮かび上がってくればよいと思います」

と述べられました。

一方、一照さんは、東大の大学院で乳幼児の心の発達について研究していた時代にラカンの口頭発表の論文の集成『エクリ(Écrits)』に出会い、ラカンの精神分析理論それ自体は非常に難解で理解できなかったものの、思想史の潮流にとって欠かせない人物であることは認識した、といいます。

一照さんは禅僧という立場から、わたしが「わたし」と思っているわたしがフィクション(虚構)である、というブッダによる「無我の洞察」から仏教が出発していることと、ラカン精神分析もまた「自我とは主体の自律的・統合的機能ではなく、そのような機能についての妄想でしかない」と看破したこととの間に、禅の思想とラカンの思想の共通点を見出せるのではないかと、ラカン派精神分析医との対話を愉しみにしておられました。

ここで、レポーターである私の自己紹介的な話が唐突に始まりますが、実は私も、今から10年前から7年余りにわたって、小林先生とは別のラカン派の精神分析医の下で精神分析のセッションを受けておりました。

そこでは、患者である私が寝椅子(カウチ)に寝そべり、分析家である先生が私の視界に入らない、私が寝そべった頭の向こう側に座って、セッションの時間は不定で、時には数分でサッと終わることもある…という、ラカンの理論に忠実に実践しておられました。

その当時の主治医であったその分析医は、日本でのラカン研究者による団体の中心的なメンバーであって、私はそのような日本でも稀で高名な先生についていることがほのかに嬉しく、私は勝手に自分自身を「先生の弟子」だと思って、多い時には週に3回も通っていたこともあった先生とのセッションの時間を私なりに愉しんでいましたが、私もその当時ラカンについて読んでみようと思って、大きな書店でラカンの著作を立ち読みしかけても、難しすぎてまったく歯が立たず、日本人の精神科医師がラカンについて書いた本(…斎藤環さんのものだったか?)ですらも難しくて分からなかったのを覚えています。

「数式みたいなものも出てきて、こんなので"心とは何か?"を探ろうとしていたの?」とチンプンカンプンだった精神分析セッションが、きょう小林先生のお話をおうかがいして、こういう意図をもってこういう理論に基づいて行われていたのか!ということが何となくわかって、しかもそれが禅と多くの共通点を有することが分かり、非常に感慨深い思いでした。

お二人の自己紹介の後は、これから繰り広げられる対話の理解の基になるようにと、日本の精神医療では必ずしも主流とはいえないラカン派精神分析という手法について、その成立史も含めた概説が小林先生からありました。

そこでは、ラカンがサンタンヌ病院(パリ)で始めた「セミネール(セミナー)」の第1回開講にあたって述べた挨拶の中で禅仏教の教説を引用したことや、ラカンの最大の理解者であり、小林先生も直に指導を受けたというフランスの精神分析医、ジャック=アラン・ミレールとの初めての対面の時に「君は道元の"正法眼蔵"は読んだかね?」と言われたことなど、ラカンとその理論が禅を深く理解していたことがよく分かりました。

小林先生が紹介してくださったミレールの言葉で、分析家が患者に公案(禅問答)を与えて患者がそれに答えを出す…のではなく患者自身が分析セッションという場に公案を持ち寄る、という構図を、分析セッション空間という"茶わん"に"お茶"を注ぐのは分析医ではなく患者自身である、というお話を一照さんがさらに敷延して、「精神分析セッションそれ自体が公案であり、もっというと患者自身が"人生という問題"という公案であって、「わたしがいま生きているという事実」は言葉で完全に言い表し語り尽くすことはできないけれども、そこをあえて言葉を尽くそうと努めることで、あたらしい言語が習得される時のように、あたらしい言葉遣いで<自己>を語り、あたらしい私という物語を紡いでいけるようになること、その意味で、精神分析も禅もtechniqueではなくartだったりcreation(創造)であり、そしてそれが精神分析の実践と禅の実践がともに目指すところなのではないだろうか?いうお話がとても興味深く響きました。

仏教や禅を学び実践するようになった者が、東京・西麻布の静かでミステリアスな空間にラカンについての講座を聴きに行く…というのは、我ながら酔狂で奇特なことだとうっすら感じながら、そしてそれは、会場でご一緒した一照さんの坐禅会の常連さんである私の知人にも「あなたも随分奇特な人ですね(笑)」と失礼ながら言ってしまったくらいでしたが、上記のような私にとっての個人的な事情から、精神分析の実践者である小林先生と禅の実践者である一照さんの対談を、私は心待ちにしていました。

一照さんからカメラを預けられてカメラマン役を仰せつかりながら講座を拝聴して、ラカン派精神分析実践者に出会い(そのかつての先生はお亡くなりになられたと小林先生から知らされました)、そして一照さんという禅者に出会った…というのは偶然ではなく、ある一つの大きな<流れ>があると感じられた、今回の「青虫の1day修学旅行」でした。

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