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文化学院の再評価~100年前の教育革新

姿を消したリベラルアーツ・スクール「文化学院」

文化学院は、1921年(大正10年)に「楽しき住家(じゅうか)」を著した建築家の西村伊作により創立され、「大正新教育」をけん引した非常にユニークなリベラルアーツ・スクールでした。
創設者には、西村のほか、与謝野晶子、与謝野鉄幹、版画家・洋画家の石井柏亭(いしい はくてい)らが名を連ねました。
 
明治に入り、殖産興業を目的に、よく言えば「粒ぞろい」、悪く言えば金太郎飴的な人材の「大量生産」を指向する学校令に対し反旗を翻したのが彼らだったそうです。
「学歴」という考え方は明治に生まれたと言います。
富国強兵・殖産興業は画一的教育の整備と裏腹で、生徒が全員先生の立つ教壇を向く教室の座席デザインもこの流れに沿うものと聞きました。
 
政府に規程された「学校」であることを拒絶した文化学院に入学した生徒に対して、講師もつとめた「日本近代音楽の父」・山田耕筰は、開校式のあいさつで「この学校に入った生徒は勇気がある」と述べたそうです。

第1回生 卒業式

この伝統はずっと生きていて、私と同世代の頃の生徒も、入学式で当時の校長に「この学校(文化学院)の卒業証書を持っていても何の役にも立ちません。自分に合った仕事を見つけて(社会に)出ていきなさい。」と言われたそうです。
学歴ではなく、身を立てるための何かを得よという哲学は、ある時期まで脈々と受け継がれていたようです。

文化学院が創立以来大切にしてきたことのひとつが芸術教育でした。
山口周氏のベストセラーに「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」(光文社新書)がありますが、西村伊作は、今から100年前にそれを実践していたわけです。

与謝野晶子「文化学院の設立について」

与謝野晶子は、設立の趣旨をこう高らかに宣言しています。
「私たちの学校の教育目的は、画一的に他から強要されることなしに、個人個人の創造能力を、本人の長所と希望とに従って、個別的に、みずから自由に発揮せしめる所にあります。
これまでの教育は功利生活に偏していましたが、私たちは、功利生活以上の標準に由って教育したいと思います。即ち貨幣や職業の奴隷とならずに、自己が自己の主人となり、自己に適した活動に由って、少しでも新しい文化生活を人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに生きる人間を作りたいと思います。
言い換れば、完全な個人を作ることが唯一の目的です。
「完全な個人」とは平凡に平均した人間という意味でもなければ、万能に秀でたという伝説的な天才の意味でもありません。
人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえいれば宜しい。
それで十分に意義ある人間の生活を建てることが出来ます。
また一能一芸以上に適した素質の人が多方面に創造能力を示すことも勿論結構ですが、両者の間に人格者として優劣の差別があると思うのは俗解であって、各その可能を尽した以上、かれもこれも「完全な個人」として互に自ら安住することが出来るようでなければならないと思います。」
(与謝野晶子 「文化学院の設立について」)

旧校舎


アンチ画一(かくいつ)教育の城~華麗な教授陣

江戸時代の寺子屋(どうも厳密に言うと寺子屋は上方の呼び方で、江戸周辺などでは手習指南所や筆学所と呼ばれていたようです)は、それこそ画一とは程遠い存在で、ひとりひとりがバラバラに学ぶ場であったようです。
そのような経験をもつ世代がまだ生きていたからこそ、明治の教育の奔流を押し返すエネルギーで文化学院が誕生したのでしょう。
  
小さな、ちいさな学校にもかかわらず、講師陣には山田耕筰(作曲家、指揮者)のほか、赤城泰舒(洋画家)、高浜虚子(俳人・小説家)、有島武郎(小説家)、佐藤春夫(詩人・小説家)、寺田寅彦(物理学者)、堀口大学(詩人)、戸川秋骨(翻訳家・評論家)、菊池寛(小説家・ジャーナリスト・文藝春秋社創業者)、美濃部達吉(法学者)、北原白秋、萩原朔太郎(詩人)、室生犀星(小説家)、竹久夢二(画家・詩人)、三木清(哲学者)、川端康成(小説家・ノーベル文学賞受賞者)、小林秀雄(評論家)、岸田國士(劇作家、劇作家の登竜門である岸田國士戯曲賞に名を残す)、清水幾太郎(社会学者・評論家)、東郷青児(洋画家)、棟方志功(版画家)、宇野重吉(俳優)、遠藤周作(小説家)、井上ひさし(小説家・劇作家・放送作家)、高階秀爾(美術史学者)、野村万作(能楽師。野村萬斎の父)、米原万里(同時通訳者・エッセイスト)など錚々たる、というよりも歴史上の人物が名を連ねます。

卒業生となると、書ききれない感じです。
共通点は、かなり変わった人たち、というあたりでしょうか。 


文化学院の衰退~大正リベラルアーツ教育の蹉跌

その後文化学院は、三段階で衰退していったように見えます。
第一段階は、他の私学の付属学校設立で「参入」が増えたこと。名門大学にエスカレーターで進学できる=これも学歴の一種に見えます。
第二段階は、太平洋戦争の挙国一致、大政翼賛の動きの中で、国が自由な教育を制限し、文化学院に閉鎖命令が出されたこと。この時、文部省や東京都は文化学院を「有閑不急学校」と呼んだそうです。この時のことを、読売新聞は「私學整理の大鉈光る」という見出しで報じました。(1946年4月、敗戦を受けて再開。)

1943年8月31日 東京都長官による閉鎖命令


最後は、戦後の高度経済成長の中での大卒一括採用と学歴信仰の影響。
専門学校が、本来は全く方向性の異なる教育機関にもかかわらず、「学歴ピラミッド」幻想の中で大学より下に考えられるようになる中、文化学院は、「私塾」に徹することが出来なかったようです。
西村伊作、石井柏亭、与謝野夫妻のような、理念を体現する著名な個人からの代替わりも影響したのでしょう。
「西村伊作の家系」というだけでは、そこまでの求心力を持ちえなかった。
 
戦後は国が決めた「学校」という枠から超然たりえなくなり、学校のシンボルともいえる入口のアーチは、祖地であるお茶の水から両国に校舎を移転した際に姿を消し、最後は専修学校として2018年、惜しまれながら、その歴史に幕を下ろしました。
現在では軽井沢に創設当時の建物を再現したルヴァン美術館に当時の建物の名残をとどめるだけになっています。

ルヴァン美術館に再現された旧校舎

再評価の意義

画一的教育がVUCA(ヴーカ)と表現される変化が激しく見通しのきかない時代の中で立ち行かなくなり、「学歴社会」の信頼性の失墜、東大を頂点とした学歴ピラミッドのグローバル化による熔解が進む中、生徒の生きる力を育てようとしたリベラルアーツスクール・文化学院と大正新教育を再評価することには、大きな意味があると考えます。

2021年6月~11月 ルヴァン美術館 文化学院展 チラシ

 
#大正新教育運動 #リベラルアーツ #文化学院  

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