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妻と子どもに生かされ、そして、ふたりのために生きるということ。

金曜日の夜から日曜の夕方まで、妻と子どもが実家に帰ってぼくはひとりだった。久々にひとりになれる。そう思っていたのは、子どもが生まれてすこしたった頃までだった。

妻と子どもがいないとぼくは途端に料理をしなくなる。たいていデリバリーかコンビニ弁当を買って、食べたと思ったらソファでゴロゴロする。たいていの場合、スマホをいじりながら。金曜日の夜はまさにそのように過ごした。

次の日はすこしはマシな1日を過ごそうと思ってもそうはいかない。起きたらほとんどお昼に近い時間になっている。寝ぼけ眼で、今度こそ自炊するという意気込みはどこへやら、結局はソファでゴロゴロしてしまう。その結果、起き上がることなくやはりデリバリーで食事を済ます。溜まっていくプラスチック容器。部屋中に充満する活気のない陰気。

ぼくは、妻と子どもが不在になるたびに思うのだ。ぼくは、きみたちがいなければ廃人も同然なんだ、と。ふたりの存在が、ぼくという廃人をどうにかこうにか一応の大人にしてくれている。ふたりはぼくの生きる目的でもあり、ぼくの生命の原動力でもある。そんなふたりに感謝したい。

あらためてこう考えると不思議だ。ぼくは確実に生かされていて、自分が自分で生きているという感覚が薄い。ふたりがぼくの身体に生命を吹き込んでいるかのようだ。あるいは、ぼくはセルフ・ネグレクトなのかもしれない。ふたりに急かされて生きているだけで、ほんとうは自己無価値感に陥っている、そのように考えることもできる。

でも、おそらくその可能性はない。自分の人生に満足し、ふたりに感謝しているからだ。ふたりに生かされていること、あるいは、ふたりのために生きているということがぼくの誇りだ。それだけで、ぼくの人生は輝いている。

いつか、ふたりがこの記事を読むことがあるのだろうか。こっ恥ずかしいラブレターになってしまったが、ほんとうのことだから仕方がない。

このnoteを読まずとも、ぼくの想いが届くように生きていきたい。

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