思想家


僕はずっと司馬遼太郎が好きだった。
この人のように自分の考えを表現できるのはすごいと思っていた。
僕も自分の考えを公表したいと思った。
それは人と違うという思いを持って生きてきた自分の使命だと思ったし、日々やりたいことだと思った。
現に、隙さえあればこうやって自分の心の中を何かに書き記している。
これに何の意味もないのだ。
生きていることにも何の意味もない。
ただ司馬遼太郎を見ていると、ただ何もない世界において歴史という題材をうまく使って、面白おかしく人生を生きている感覚がある。
しかも人に媚びていない。
純粋に心から自分の思いを打ち明けている。
それは小説という形で世に出回ったが、誰かの機嫌を取るために書いていない。
だって題材が、自分が取り上げたいものだから。
どう見たってそうだ。
河井継之助とか村田蔵六とか。
明石家万吉とか。
そこか、そこいくかって。
大衆に迎合していない。
歴史小説家。
すごいなあ。
どうやって歴史の資料を集めて、どうやって書いているのだろう。
そして登場人物を切り替えながら、その人が見た風景に憑依する感じ。
この感じは僕にとっては嫌なことだ。
僕は一方からの目線でいい。それは僕からの目線ということ。
司馬さんは多角的な視点を持っている。
小説家はおそらくみんなこの視点をうまく使って読者を引き込むのだろう。
でも僕はしたくない。
一方的な考え方を述べたい。
今僕が一番きつのは、その思想が固まっていないからだ。
確信めいたものがない。
もしかしたらそっちの方がいいのかもしれないと思ってしまう。
選択肢が多いからだ。
選択肢。
自分を信じ切れていない。何かに怯えている。
司馬遼太郎さん。
僕はあなたみたいになりたい。
あなたみたいに何かに没頭して自分の考えをその何かに込めたい。
僕は煩わしいことはしたくない。
計算とか戦略とか、まどろっこしいことはしたくない。
僕はあなたになりたい。
こうやってつらつらと文章を書いていくのが好きだ。
しかも誰に当てての文章でもない。
読む人がいようがいまいが、いい。
僕は僕の心の中から湧いた文字をただ何故か記したい。
何でかはわからない。
意固地で自己中心的な僕は、自分が一人になって自分の心の中を描き出せる時間を欲している。
そこで何が起きるのかどうでもいい。
なんでこうやって描き続けるのかもわからない。
ストーリーもない。
でもただこうやって心と向き合いたい。
このウダウダした時間が無性に好きなのかもしれない。
ただ考えるだけ。
ただ悩むだけ。
僕は悩みが常にある状態が好きなのかもしれない。
僕はメチャクチャになりたい。
思想家でいい。
だって本当は何もしたくない。
朽ち果てたい。
でもせっかく生まれてきたのなら、この生命時間を使って何かをしたい。
本当に一人になる時、僕は僕になれる。
誰かと一緒に何かをするのは嫌。
一人でやっていてそれから伸びるにはチームでやりなさいって、それは一般論かもしれないが僕は違う。
型にはまって物事を学んでから次って言うけどそれは僕には当てはまらない。
みんな普通に上手にやれているけど、僕は正しいやり方とかスマートとかできない。器用じゃない。
器用になりたくない。
現代社会に馴染みたくない。
コンビニに行きたくない。
僕は変だ。
だから普通のやり方は通用しない。
メチャクチャなんだ。
破天荒、ぶっ飛んでる。マジで無理。
大人とかマジで無理。
ちゃんとなんてしたくない。
自分が成果を出すために自分を繕っていたけど、もういい。
もう、ここまで。
もうここからは自分らしくいたい。
動画っていうよりもやはりもっと静的な活動がいい。
文字を書く。
しかもそれを多くの人に届けるような。
でも人のためには作らない。
僕が僕のために作る。
それを誰かが受信する。
それだけ。
もう嫌だ。
なんかに縛られて、何かの中にいる。
そんな自分はもうダメだ。
完璧主義もやめ。
僕は何がしたい?
本当に僕がほしいものなんだ?
それを考える。
登録者数?
何だったらワクワクするのだ?
小説はストーリー。ストーリーは違う。
人の生き様。
んー。
何だったら朝起きて自分がバッと起きて打ち込むことができる?
やはり何かをかくこと。
しかも調べて書くことじゃなくて。
でも今の時代は知識が高い人が低い人に向けて書くのが需要があるのだろう。
でもベッドから飛び起きてやりたいこととは?
数年前まではそうだった。
飛び起きて強くするために何かと考える。
でも今って。
今力は湧かない。
何がしたいのか。
何を見ても心が動かない。
自分がこう生きたいと生きればいいと岡潔も言っている。
自分の感性を信じて生きていくこと。
司馬遼太郎が書いた「空海の風景」。
これをもう一度読もう。
大学生の時に読んだが難しかった。
今読むとどうなんだろう。
思想家が書いた思想家。
僕は司馬遼太郎のようになりたいと思った。
司馬遼太郎のどこに惹かれたかというと彼の思想による。
「思想家」で調べると、空海の名が出てきて最後らへんに司馬遼太郎が出てきた。
空海、司馬遼太郎。
この2人。
この2人はすごい。
僕は何者なんだ。
僕は一体何がしたいんだ。
こんなこと書いて何になる?
誰にも届けているつもりはない。
自分の内部にある素直な直感を大切にしたい。
「純粋直感」岡潔。
純粋直感で生きる。
打算的ではないこと。
お金とは関係ないこと。
やっても意味がないことをただやりたいこと。
僕は何がしたい。
そうだ、情緒を失い損得勘定で生きているから、自分の情緒がわからなくなっている。
今まで勝利のために損得勘定で生きていきた。
それはもう30代で終わり。
ここからは僕は自分らしく生きたい。
だからここからは誰かに任せたい。
全てを捨てよう。
「人生は何を捨てるか」岡本太郎
命に厚みが出る。
安全な道は身動きを取ることができなくなる。
だからもっと危険な自由な道を歩めと。
何を捨てるか。
「安全にやること、人の目を気にして無難に生きていくことが今の人生を虚しくしている。人の目を気にしないで生身で生きていた方がどれくらい人間的に生きていたのか」
根本的なこと。
「人の夢想を育てるには格好の自然といえる」空海の風景より。
なんだこの表現。
天才すぎる。
僕がしたいのはコーチングじゃない。
コーチングはかすっているがど真ん中ではない。
僕は何をしているんだろう。
僕はコーチングを超えた何かが作りたい。
なんかこじんまりした箱の中でのコーチングなんかしたくない。
そんな思いが根底にあるのだろう。
僕はめちゃくちゃだ。
支離滅裂。
空海はこんな時何を考えていたのだろう。
常に自分と対峙していたのだろうか。
勤勉に何かを考えていたのだろうか。
何を貫くかを決めればいい、それだけ。
でも中途半端で何も覚悟を決められない。
あれもほしいこれもほしいではだめ。
周りに馬鹿にされてもいい、それでもこれだけがほしいという何か。
それが思想家なのか。
自分の思いをつらつらと描き続けていきたいのか。
自分のダメな部分。
それは自分で考えずにサッと飛びつくこと。
これをしてしまう。
これを捨てるということ。
細かいことはできない。
考えて何かこの世界でお金を産むとかそういうものは無理。
それは無理、できない。
だから誰かに任せる。
周りから孤立すること。
それが本当の意味で誰かのためになる。
みんなから評価されずに、自分とはこうだと。
人間なんて豆粒の存在だ。
そうだ。
それで自分はすごいとかダメとか、どうでもいい。
口内炎が痛い。
僕は何に怯えているのか。
簡単なこの人生。
僕は多くを求めない。
普通にいれば多くの人に好かれる。
でもそれは違う。人にどう思われてもいい。
もうやりたいことをやる。
身軽になってやりたいことって、自分の気持ちを発表することだろうな。
多くの人に自分の気持ちを伝えて、異端児ぶりを見せたい。
自分に純粋に生きている姿を見せたい。
生物として本来の姿に僕が一番近いと思う。
人類の誰よりも。
だから一人になりたい。
誰とも会いたくない。
僕は純粋な人間を極めたい。
それを余すことなく伝えたい。
司馬遼太郎の表現力には脱帽だ。
空海、司馬遼太郎。
生きてきた人間。
歴史という面白いもの。


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