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ブライス・デスナー2台のピアノのための協奏曲 日本初演 角野隼斗 フランチェスコ・トリスターノ 6/20/2024


終わって感じた事がこぼれないようにこちらを書いています。細かいことは殆ど見れていません。また、私の能力や場所の関係など改めて聴くと全く違うかも知れません。
どうかご了承ください。

また最初にこの公演に行こうと思った経緯を追記しました。
演奏部分だけ読まれたい方は飛ばしてください。

今回こちらの公演を知った際「ブライス・デスナー」という聴いたことがないアーティストを耳にして、直ぐ様演奏されるという「2台のピアノの為のコンチェルト」の音源を聴いてみた。

角野さんのファンになってからそれなりに音楽を聴く内に、自分が意外とミニマル音楽を聴けることに気づき、ビート感のある曲にカッコよさを感じ、耳にした瞬間これは聴きたい…!と思っていた。

その時のポストがこちら。

しかし地方に住む者として、また日々予定が読めない者として、簡単に遠征を決めることはできない。
何よりも行きたいもの全部行っていてはこの先が続かない。。

もし、行けそうで、チケットが残っていたら行こう。そう決めた。

そしてしばらくの事。

チャイコフスキーのコンチェルト及び交響曲のツアーを佐渡マエストロと行っていた角野さん。少しずつ発表される公演日に何となくチケットを取りそこね留守番組を選択。
感動のポストが上がる日に、ありがたくそれを読ませて頂きつつ、割り切っていたつもりだった。
しかし、急に実施されたラボに、随分と自分の耳が生音不足な事を知らされる。
 正確には「角野さんのピアノの音」なのだけど…。

それでほぼもう行かない方に気持ちが向いていた私だったが、日帰りが出来そうな大阪のチケットが余っていることを知り慌てて申し込んだ。

また、一度聴いてみたかったフランチェスコ・トリスターノさんとの共演。

たくさんの楽しみな要素が詰まったこの日の公演だった。

そして当日を迎えた。(6/23 追記)

豪華な大阪フェスティバルホールに到着する。
一階後方とはいえ段差があり、とても見やすい。
オーケストラの皆さんがステージに登場し、セバスティアン・ヴァイグレマエストロが
柔らかなオーラを纏って登場した。

最初に演奏されたワーグナー『楽劇〈トリスタンとイゾルデ〉から前奏曲と愛の死』は弦や繊細な管楽器の幾重にもなった音が繋がり物語を奏でていった。

ワーグナーを生演奏で聴くのは重森さんのピアノ独奏以来。その時も他の楽曲とはひと味違った印象にこの日の演奏も楽しみにしていた。

読響オーケストラの音は生では一度体験した事があり、その時に明るくて華やかで好きだなぁと感じていたのだけど、やはり今日もその音は明朗に温かくこちらに届いてきた。ヴァイグレMo.のタクトが優しく柔らかく動きに合わせ、その場面を浮かび上がらせるべく、バイオリンもコントラバスも慎重に音を重ねていく。

そして相変わらずの素人だから難しい事は全く分からないのだけど、場面の音楽というだけでなく、ワーグナーの音の世界観には四次元の様な奥行きを感じる。「哲学的」と言われる事も何だか頷ける。

ずっと弦や管楽器が音の波を繋げて揺れて、ストーリーを見せられているというより、大きな環の中で感じている状態。
「生」と「死」と「愛」を優しくもどこか冷静に見つめるような音楽がすっとこちら側の隙間をつくる。
ヴァイグレMo.のタクトはとても穏やかに感じた。
5台のコントラバスが僅かな音量で鳴らす地から生まれてくるような音に感心したり、ホーンや管楽器の弦と馴染むように細心が砕かれた音に歓びを感じたり。

(「トリスタンとイゾルデ」のあらすじはこちらを載せます)

中盤で確かハープが重なってきたのだけどその柔らかさが更に場面に美しさを生み。

だんだん音の厚みが増え
最後は「愛」が「死」を超えて、やがて全ての音が止む。
そして余韻が消えるまでマエストロの腕が暫く掲げられたまま。
タクトが降りた事を確認してやっとその物語に皆が拍手を送る。

とても視界が開けていて空間としては広いのだけどマエストロの優しい丁寧な指揮に、クラシックの仰々しさではなく親密さを感じた。

そして奏でられた物語の音楽の環が感覚に残されたまま、私達の前に角野さんとトリスターノさんが現れた。 

こちらも多少気を抜いていたのでそのタイミングに驚いたし、もっとかしこまって登場されるのかと思いきや、ふらっとリラックス、なお二人である。手にはマイク。

そして理解したのはピアノを設置する間、ブライス・デスナーの2台のピアノのためのコンチェルトについてお話をして下さるということ。
各欧米オーケストラから共同委嘱されたブライス・デスナーが作曲し、ラベック姉妹の手によって2018年に初演されたというこの曲。
角野さんからは今日大阪での演奏が日本初演である事、作者のデスナーと現代音楽について説明があった。「現代音楽は聴きにくいという感覚もあるかもしれないけれど、クラシック音楽というだけじゃない不思議な響きやリズム等楽しめると思う」と。
更にトリスターノさんをご紹介の後、トリスターノさんもマイクを手に語ってくださった。
その中に『人生とは美しく奇妙である』というフランスの芸術家の言葉を紹介してくださる。
この言葉を聴いた時、正しくこのコンチェルトに「生きるとは?」というテーマを感じながら予習していた私には点が繋がるようだった。
「そしてこのデスナーの音楽も正にそんな要素を持っています」と角野さんが繋げる。(因みに角野さんは「言葉がいいかはわからないけど「かえるの合唱」みたいなものです」と言って笑いを誘っていた。)

ブライス・デスナーの生い立ちや音楽思考が分かる興味深いインタビュー記事

お二人が一旦舞台袖にはけ
大きなグランドピアノが2台ステージ正面にぴったりと組み合われて置かれる。
トリスターノさんのピアノの譜面台にはやはり紙の楽譜。(以前ジョン・ケージの系譜と教えて頂いた)※SNSの情報で角野さんの方はタブレットの楽譜があったと知る

ヴァイグレMo.が指揮台に立ちタクトを振ると、角野さんが前日のラボで仰っていた音の光が鮮やかに煌めく。
(※ラボ=YouTubeの有料チャンネル)

体が直ぐにビートを受ける。
ビートという支柱がないままゆったりと揺れ動いていった「愛の死」との対比がとても鮮やかだ。

そして目(耳)を見張ったのは恐らく大勢の方が感じるであろう「ミニマル音楽の難しさ」が取っ払われていた事だった。

ミニマル音楽の難しさ…私は無機質な音、音楽そのもの無機質さと考える。

この日のお二人が奏でる「デスナーコンチェルト」は音の角を取り、色をつけ、時折溶け合うように繊細に掛け合う。それは私には生身の人間の人生を、先に聴いていた音源よりもすっきりと描かれているように感じられた。

これが角野さん及びヴァイグレMo.の狙いなのかと。

そしてピアノは角野さんとトリスターノさんというお二人ならではのスタイリッシュさもある。

2台のピアノは自分ともうひとりの自分。
そして背景に奏でられるオーケストラの音たちは人生に起こる事、関わってくる人の全ての描写に聴こえてくる。

これは本当に個人的な考えなのだけど、予習でラベック姉妹が強い打鍵で奏でていたビートを、この日は音量的にオーケストラに持たせた気がしている。
遠目で見ている為確実ではないのだけど、鍵盤を力任せに弾いている印象を受けなかったのだ。
その為か私にはもうピアノだけを聴くのは無理で、オーケストラとの音の融合がなされていてとにかく聴きやすい。
全く壁がなく難しい筈のミニマル音楽の心地の良いビートと揺らぎ続けるリズムが耳を攫う。

事前には音の一つ一つを感じるのがいいだろうと思っていたのに、ある意味裏をかかれたような。

パン!となるウッド・ブロックとのタイミングも小刻みにうねる弦との掛け合いも、難しい連符を刻みながらどうしたらそんなに合うのかと息を飲む。

ところで上手側の私からは角野さんの手元は全く見えない。
見えないけれど、独特に変化するリズムを浴び続けているとお世辞ではなく耳障りの良いこの飽きさせないビートは角野さんしか弾けないと感じてくる。
それでいて、突出しない。
突出しないからダイレクトにこのコンチェルトの掛け合いの面白さが浮かび上がる。

後体感したかった単音の低い音…そこだけプリペアドしたみたいなあの音色の機械音のような掛け合い。

そして本当はもっとラベック姉妹の様なジリジリとした焦燥感とか、剥き出しの打鍵音とか、ぶつかり合う2人のピアノの対戦を何処か期待していた。

その一方で角野さんなら私が予習した時に感じた無機質で寂しさに似たようなどうしようもない重い質感を鮮やかに塗り替えて下さるような気がしていた。

因みに事前にトリスターノさんとリハーサルを行った角野さんはこんな風にポストされている。

繰り返すが先に音源を聴いた時、この作品イメージとして「楽しさ」は感じにくいと思う。
しかし言葉通りマイナー調と思われるはずのこのコンチェルトに目の前で流れる演奏は「楽しい」と言う感覚まで加わった。

それはお二人のピアノがそう聴かせたのだと。
主張しすぎないピアノが心地よいビートを保ちながら、楽曲に軽やかさを生み、温かさを感じさせ、風が通り抜けていくような颯爽としたコンチェルトになっていたと感じた。

もう少しここは…というオーケストラのビート感が撚れたように思った箇所もあったけれど、全く振り向かないディグレMo.と、殆どお二人だけで見合って確かめてるような2台のピアノの音が見事に時を刻んでいく。

ふと見るとおふたりの足は楽しげに床を鳴らしている。
こちらから見えるトリスターノさんの手元もブレがなく、時折楽譜をめくり、片手が空いている時はその手で拍を取っていた。

一瞬指揮が止んで音が止まり意識のリズムが途切れたり、それまで鳴り続けていたオーケストラがふと消えピアノの音が浮かび上がったり。
静寂の裏にもどことなくビートが流れている気がして唐突な印象はない。
あれだけラボでここの和音が、この響きが…と訴えてくださったのに、音楽と溶け合ってしまっていてだめ耳の私にははっきりと掬い取れない。
でもそれはそれで私にはとても心地よく感じたのだ。(後で思い起こせば、カデンツァ部分などは聴き取っていたが、展開も早く、感じている間がなかったのと、またこういうところのオーケストラとの掛け合いがもしかしたらもう少し調節があったら映えたかもしれない)

自然に純粋に力を抜いてデスナーのコンチェルトの楽しさを味わっている。

(多分この舞台に立たれている方達がみな優しくて、そんな事も私は音に表れているようにも思った。)

いきなりだが、もう随分前からこの世の先の未来に厳しさしか見出だせていない。
混沌とした状況がどんどん強まるだけの日々。
何も成すことが出来ない私たちは…そして子どもたちはどう生きていく?
この公演に来る前にも、ご一緒して下さった方と思わずそんな話になった。

演奏を聴けることが楽しみでありながら、それを何も考えずに味わえる事はないと何処か重たい気持ちだった。

最後のクライマックスでは舞台のほぼ全ての楽器が音楽の脈を刻む。
そしてそれこそ急にその音の幕が降りて、コンチェルトは終わった。

たくさんの拍手を送りながら思った。

「何だろうこの多幸感……!!」

驚きだった。

いつの間にか胸が一杯になり、ひとりでは抱えきれなくて、隣の方に思わず声を掛けた。
そして二人でふうと息を吐いた。
以前「食事で満足すると人はため息をつくのだ」と超一流と呼ばれるレストランのサービスの方が語っていたのを見たことがあるが、正にそんなため息だ。

あんなに憂鬱だった心が晴れている。
角野さんのピアノを聴けたから?
いや、正直そんな感覚は余りない。
寧ろ個としての角野さん成分は余り感じていなくて、ただただこのコンチェルトを浴びていたら心の闇を攫って持っていってくれたような…。

後これは妄想だけどその軽やかさは角野さんから「何が起こるかなんてわかんないけど、もう少し軽やかに楽しく生きて行けば?」と背中を叩かれ笑われたようだった。

そして本当にそうだなと思えた。

その後お二人は2度カーテンコールに現れ、穏やかな笑顔を観客席に向けて下さった。
2度目にはヴァイグレMo.も見える。

3度目にはお待ちかね(?)のアンコール。

お二人で演奏してくださった曲はこちら。

ジャズ感のある繰り返されるノリは確認しなくても聴いている皆が笑顔になる曲だ。
角野さんは余裕のある笑みを浮かべなが得意のビートを奏でる。
途中ハラハラとトリスターノさんの楽譜が舞い落ちる。
2枚目は何なら自ら払い落としていたような。
その楽譜が舞台の下まで落ちて、客席との空間を繋いだ。終わってからお客さんが楽譜を揃えて渡す。
演出なのかはわからないけど、そこまで含めてとても素敵なアンコールだった。


聴く前はあっという間だろうと思っていたデスナーのコンチェルトだけど、満足度が凄かった。
ワーグナーの「愛の死」との質感の違いも本当に面白かった。

そして恐らく2度目、3度目の公演にはもっと成熟して尚一層素晴らしい世界が味わえるのではと感じた。

ここまで書いていて思った事。

望み通りであることと、時に望んだことへの裏切り。それが、いいことかそうでないかはわからないけど、良くも悪くも人生ってその繰り返しかもしれない。
それを苦しみにするか歓びにするかはまだ選ぶ事が出来る。
 
最後にデスナーのコンチェルト日本初演を聴けた記念にこの言葉を。

La vie est belle et étrange .