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哲学の時間(1)

さすがに数百mの坂ではそうは思わないが、1km、2kmと続く坂道を自転車で登っていると哲学のような時間でもあるなと思う。もちろん運動しているので登っている最中そのほとんどは基本「つらい」し「苦しい」しかない。

しかしそうした頭のほとんどが辛さや苦しさに支配されていてもどこか頭のほんの一部、片隅ではいろんなことを考えたり、整理しようとしているところがある。しかしそれは何かスッキリした明確な形をとったものでなく、どちらかと言えば、白濁した意識の中で「何かがそこにある、ありそうな気がしている」程度のもので、実際はそんなこと全くなく、ただ辛さや苦しさの中で朦朧としているだけかもしれない。けれど、答えがありそうでない、その片隅の何かは哲学にも似た答えのない何かに答えを出そうそうと自身と向き合う、哲学的な何かの時間のようにも感じる。

まぁ、ヒルクライムしているとこんな哲学的な思考にもなる…そんなこともある…そんなような気がしないでもない。

今日親しい友人と子育ての話をしている時に一生懸命取り組むスポーツがあるなら「ノートをとったら良いよ」と話した。「辛かった」とか「今日はやりたくなかった」とか「悔しかった」とか「楽しかった」とか、気持ちを綴るところからで良いからと話した。

子供たちはもちろん、その子供たちを見守る親の、もしくは親と子供が一緒に考える「思考」や「考える」の初めの一歩にして欲しいと思った。

そう思うと僕もこの頃は自転車のトレーニングを再開ししているがそうしたトレーニングの日記など書いたことはないなと思った。だから僕も記してみてはどうかと考えたわけだ。

僕は今日仕事が終わってから近所の山を登った(自転車でヒルクライム)。その坂は約5.5kmの登りで平均勾配が約6.7%で獲得標高は約360m。今の自分では登るのに約25分かかる。先程の説明に当てはめるならその25分間の80%くらいは辛く苦しい。10%くらいは「こんなことして何になる」とか「こんなことしないくても良いのに」とか「こんなこと(登ると)決めなければ良かった」とかがほとんどで、ポジティブな意見は「あと何Kmの我慢だ」とか「いつか終わるから」という辛くてネガティブな意見の多さからすればそれに反論するべき良い材料は非常に僅かで、ペダリングをやめ足をつきたくなる中、そんな僅かな材料をかき集めてなんとかゴールを目指している。

そして最後の残り10%は「そういえば…」とかその日あったことを思い出したり、昔のことを思い出したり、これからのことを考えたり、違うことを考えたり、何かの考えを整理しようとしていたりと、白濁しながらもなんともいえない、答えのないいろんな考えがぐるぐるているような哲学的な時間とも言えなくもない何かがそこにはある。

スポーツであるし、登りでもあるからその日の、その行為はいつか終わりはくる - おげさに言っているが今日でいえばたった25分だ - 。それが時間にすればどんなに遅くとも、どんなに早くとも。誰かと競えばそこには喜びも悔しさもある。しかしどこまで追っかけても、自分と向き合うという時間の中に本当の答えはない。そんなに簡単に答えが見つかるなら人は紀元前から哲学を研究し続けたりしない。だから向かいあうために唯一できる努力は挑戦するそのひとが、それを支えるそのひとが、それぞれ真剣に「考えること」「思考すること」だけだ。その考えがその思考やそれらが束になった「想い」が軸になり、身体を動かし、困難に立ち向かう行動を起こし、その人を育て、その環境を育み、ひとりの人として立ち上がり歩んでいく。

親子で、または個人で、スポーツをすることで、スポーツを通じて人とつながることで、スポーツを通じ真剣に思考することで、そんな自分でしかない、自分しか向き合うことのできない時間と思考を、子は子で、大人は大人で、自分の中にたくさん感じ、経験し、育み、思考し、考えて考えて、ひとつひとつを見ればそのほとんどが辛く、苦しい時間を乗り越えて、その先にある光射す方へ、自信を持って進んで欲しいと思う。

僕もそれがどんなレベルであれ、どんな環境下であり、そうありたいと願う。

大人であっても、苦しみ迷いながらも、努力したいと思っている。そして結果も答えも欲しいと願う。もちろんその問いには明確な答えはなく、その結果のほとんどが報われないものだ。なぜならスポーツを通じて僕はその残酷な現実を知っている。現実は勝者は一人で、それ以外は敗者しかない。けれどもそれを通じて自分自身に、何かの真理に近づこうとする行為と、そこにかける努力と、勝ち負けはと現実の結果は関係ない、その尊さが失われることも決してない。だから考えて、挑戦していくしかない。できることはそれだけだ。一歩一歩その瞬間、瞬間を大切にしながらそれを記してみてほしい、それは振り返った時、きっとかけがえのないものとしてそこにあるはずだから。

この文章を今日スポーツを通じとても良い話ができた、大切な友人、りょうこさんと、えっちゃんと、その子供たちのために記す。

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